『社会的ひきこもり』学習会報告

斎藤環著『社会的ひきこもり』(PHP新書1998年)学習会
  (第2回 2015年12月13日(日曜))
私たち大人の「ひきこもり」

今回「ひきこもり」についてのテキストを取り上げたのは、現在若年無業者(ニート)が70~80万にも上るという社会問題について学ぶためだけではない。

まず、この問題が、今の子育ての問題の核心とつながっていると感じるからだ。

つまり、親子の一体化が強く、子どもを自立させることが難しいという問題だ。
そもそも、家庭には、必然的に家族間の「共依存」関係が強い中で、子どもを「自立」させていかなければならないという矛盾がある。
その上、子どもの教育期間が長くなり、思春期になっても、生活面で、つまり肉体的には親に依存しながら、精神的な成長を遂げなければならないという矛盾もある。
そうした中で、親としても、子どもに何をどう指導し、同時に、子どもの自主性、主体性をどう尊重すればよいのかという悩みに、日々直面するのではないだろうか。

 

また、子どもの「ひきこもり」の増加は、私たち大人の「ひきこもり」的生き方がそのまま反映したに過ぎないと考え、私たち自身を振り返るためのテキストだった。
まず、私たち大人に、他者と深く関わるのではなく、あたりさわりなく付き合う傾向が強いのではないだろうか。

斎藤氏は、親が社会とのつながりを持っていようとも、肝心な「ひきこもり」の問題に関して社会との接点を失うという問題を指摘している。
特に、子どもの「ひきこもり」という最も大きな困難を避けて仕事に逃避する(=ひきこもる)父親の問題だ。
ただし、最近、父親が子育てに参加することで、より強力な親子の一体化につながるケースもあり、一筋縄ではいかない問題である。

また、学習会の中で、男性が仕事にひきこもっているという言い方ができるとしたら、主婦も家庭の中にひきこもっているという見方もできるという意見が出された。
主婦が成長の機会に乏しいのではないかという問題提起だったと思う。

私自身は特に40代に社会からひきこもっていたと感じている。
多少の仕事や付き合いはあっても、子どもの思春期に戸惑いながら、その問題に関して家庭の外でオープンに話し合う場はなかった。

20代の参加者からも、友だちと群れ、顔色をうかがい合い、同調し合う傾向や、その裏での陰口の問題が出された。

私が授業で接する中学生たちも同じだ。
「傷付けてはいけない」や「他人に迷惑をかけてはいけない」が至上命題として刷り込まれ、その裏で陰口やいじめが日常化している。

私たち大人自身が「ひきこもり」的生き方をしていることが、「ひきこもり」や不登校が多発するような社会をつくったのではないか。
その大人の「ひきこもり」の解決なしには、子どもの「ひきこもり」の解決はない。

 

また、人が人と薄い関係しか持たないという問題は、今の社会だけの問題ではないように思う。
私の親も、そのまた親も、私の知る限りの世代の多くの人が、人と対等に本音でぶつかり合って生きたとは思えない。
貧しい時代を生き延びるために共同体やイエの枠の中で生きた昔の人たちも、また、個人がバラバラでもとりあえず生きていける、豊かな時代の私たちも、その「ひきこもり」的生き方に大差はなく、基本的には同じ生き方が継承されてきたのではないだろうか。

人が互いにひきこもるのではなく、深く関わって、お互いを発展させるような関係は、私たちが今ここからつくっていくべきもの、つまり、私たちの課題なのではないだろうか。
さて、それはどういう生き方なのか、それが私たちのテーマだ。

 

◆参加者の感想より

生徒の保護者、Aさん

「ひきこもり」とは、辛く悲しい経験が続き重なった結果、それらを忘れてしまいたい、また、二度と同じような体験をしたくないと願うあまり、自分が置かれた状況と向き合うことなく思考を停止させ、現実からの逃避を試みた行動だと思っていました。しかし、この本を読んで、それは全くの誤解であり、逆に、ひきこもらざるをえなかった思春期の子供たちは、深い葛藤や強い焦燥感を抱き続けており、「ひきこもり」状態から抜け出したいと強く願っていることを知りました。そして、そこに、母親の歪んだ一方的な奉仕や仕事に逃避する父親の家族への無関心さがさらに「ひきこもり」を長期化させる悪循環の原因となっていることも見えて来ました。

家族の不安定な関係を考えた時、私も正論や常識を振りかざし、「何が正しいのか」ばかりを子供に押し付けて来たことに気付かされます。そして、子供たちが、「どう考えているか、どう感じているか」に耳を傾ける努力を忘れていました。一方的にしている会話であったにもかかわらず、コミュニケーションがとれていると思っていました。さらに、私の共依存的な態度がいっそう子供を苦しめ、追い詰めていたことを考えると、「ひきこもり」は人ごとではありません。

「ひきこもり」とは、単に個人の病理ではなく、身近に起こりうる社会的な問題であり、常に私たち大人が子供たちとしっかり向き合い、共感しようとする姿勢が「ひきこもり」をくい止めることに繋がると思いました。そして、何より社会全体に増え続ける「ひきこもり」に対する正しい知識、深い理解が欠かせないことも忘れてはいけないと思います。

 

生徒の保護者、Bさん

「ひきこもり」や不登校になってしまった方が身近にいたので、珍しいことではないとは感じていましたが、そのことについて考えたり、話をする機会はありませんでした。

仕事をしていたり、外に出ていても、開かれた関係をつくれていなければ「ひきこもり」であるということを知り、私自身も社会的「ひきこもり」かもしれないと感じました。

この学習会で発言をすることが、「ひきこもり」から抜け出せる一歩になるかもしれません。

学習会に参加することによって、ふだん手に取らないような本を読んだり、参加されている方の意見を聴くことができ、とても勉強になります。

少しずつ意見を言えるようにしていきたいと思っております。

 

卒塾生、20代女性、Cさん

SNS等の「面と向かわないコミュニケーション」の流行についても話が及んだが、社会、親、学校は子供たちを丁重に、傷つかないように「守っている」。そのようなぬるま湯の社会では傷つくことの耐性がつかないので、いざ現実社会で傷を負ったときに社会から逃避し、物理的にもひきこもってしまうのだろう。「ひきこもり」は個人の弱さに起因するものだと思っていたが、社会そのものの方向性が強く影響しているのだと学ぶことができた。

 

卒塾生、20代男性、Dさん

私は、父に大学院への入学について相談した。働いているのは父だからだ。すると父は、「大学で終わらせていい学費を院まで延ばすなら、やはりきちんとした動機を作るのが先でしょう」と返した。私は父の正反対の意見を受けて内心驚いたが、その時私には父が初めて父親の役割、つまり子を戒める役割を果たしているように感じられ、それ以来意見を聞くことも増えた。

父は、「自分は仕事にかまけてばかりいて、家庭を理解していないから」という理由をつけて役割から引きこもり、その引きこもりを理由にさらに引きこもる。つまり、引きこもりの悪循環に陥る。

しかし、子どもが父親自らの意見を求めた時、父親は自らの意見を忌憚なく伝えることで悪循環から脱し、家庭という社会に復帰することができる。

父はそうして築いた関係を足掛かりにして、母子の共依存関係に楔を打ち込むことができるようになるのではないか。

 

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