『ぼくらの中の発達障害』学習会報告

日時  :2021年3月7日(日曜)14:00~16:30
テキスト:青木 省三 著『ぼくらの中の発達障害』(ちくまプリマー新書)

 

この春も、昨夏、昨冬に続いて、オンラインで開催しました。

テキストの著者、青木氏は、特に思春期・青年期を専門とする精神科医です。

近年「発達障害」という言葉をよく耳にするようになり、2012年の文科省の調査によれば、学校の教師たちが、小中学生の6.5%に「発達障害」の可能性を見ているとのことです。

しかし、そもそも「発達障害」とは何なのか、これが問題だと思います。
この「障害」は、医学においてもまだ半世紀ほどの歴史しかありません。
なぜ、私たちの社会に、今この「障害」に戸惑い、苦しむ人が増えているのでしょうか。

これらが、今回このテキストを取り上げた私の問題意識でした。
青木氏が述べていることは、「障害」を持つ子どもだけの問題ではなく、広く思春期の子どもたちの課題や、人間関係の悩みの本質であるように思えます。

 

以下、テキストについての私の感想と、運営委員の山元さんの感想を掲載します。

 

 

「発達障害」の社会的な土壌

田中由美子

1.「発達障害」の概要

青木氏によれば、「発達障害」は、1943年にアメリカの精神科医から子どもの「情緒的接触の自閉的障害」の症例報告がなされたところから研究が始まった。
それまでは、精神発達の障害と言えば知的障害だけが知られていたが、その後「自閉症」や「アスペルガー症候群」といった、社会性や対人関係に困難があるような「障害」の研究が進む。
現在、その原因は、親の養育や性格などによる心因性ではなく、脳の軽微な障害など生物学的なものとされているが、その詳細はわかっていないとのことだ。

「自閉症」は、乳幼児期から問題が現れ、基本障害は言語/認知機能の障害であるという。
これが「発達障害」の中核的なものであり、その75%が知的障害を伴う。

それに対して、「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」と呼ばれるものは、思春期・青年期に自閉症の傾向が現れ、言葉の発達の遅れは伴わないが、学校や社会での対人関係に困難を抱えることが多い。(二つの名称の違いは曖昧なものであり、青木氏は「アスペルガー症候群」の方が「広汎性発達障害」より障害の傾向が強いと位置づけている。)

有病率は、前者の「自閉症」が1000人に2-3人、後者の「アスペルガー症候群」などが100人に1人という。

なお、この二種の区別が難しいケースもあるという。

また、本書で青木氏が主に論じている「発達障害」は、二種の内、後者の「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」である。

 

 2.社会の変化による「発達障害」

青木氏の「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」についての基本的スタンスは、その要因として、個人の特性よりも、社会的、文化的なものの影響を大きく見ていることだと思う。
それが、本書をテキストにした第一の理由だった。
そうでなければ、この問題に戸惑い、苦しむ人の増加が、説明できない。

まず、経済的には、ここ半世紀で産業構造が大きく変化し、「真面目だが、無口で不愛想な人たち」が働きやすい農業や漁業、または職人などの仕事が激減したこと。

また、社会的、政治的には、共同体にわかりやすい規範のあった以前に比べて、共同体的な人の繋がりが崩れた今、社会の規範が複雑になり、社会でも学校でも「曖昧で流動的な空気を読むことが求められる」ようになったこと。

そして、そのことにより言葉の役割が重くなり、さらに、「言うべき「何か」を持っているかどうか」よりも「コミュニケーション能力」が過度に強調されていることなど、文化や教育の面での問題も挙げている。

そういう社会の変化の中で、「広汎性発達障害」の傾向を持つ人が破綻をきたしやすくなっているという見方だ。

彼は、「特に日本という国、日本文化の中で生きていくというのがより一層困難を与えているのではないか」と述べる。
また、「発達障害の傾向を持つ人が、改めて力を発揮できるようになることが、今の時代と社会に問われている課題の一つ」だと。

 

それは逆に、「発達障害」の増加が、今の私たち、日本社会の問題をあぶりだしているとも言えるだろう。

経済的には、たとえば農業など一次産業が衰退し、食糧の多くを、また農業肥料の原料のすべてを輸入に頼っているというような歪な産業構造は、すべての私たち、日本人にとって大問題だ。

また、社会的、政治的には、「曖昧で流動的な空気を読むことが求められる」ような社会や学校であってはならないということではないか。
それぞれの組織の目的に合ったルールを、主体的、民主的につくっていけるような能力や制度が求められるのではないだろうか。
本質的な最低限のルールさえ守ってさえいれば、個人の自由は守られるという組織や学校でなければならないのだと思う。

私たちの社会の組織や学校がそうなっていないから、文化、教育面で「コミュニケーション能力」がいたずらに強調されているのではないか。
また、「コミュニケーション」の大流行は、対話を重視するという面で正しい方向ではあっても、自分たちの社会がどこを目指すのかという目的を、私たちが定められないでいること、つまり「言うべき「何か」」のナカミが無いことの裏返しでもあるだろう。

 

3.思春期なのに「よい子」

もう一つ大切な観点だと思ったのは、「広汎性発達障害」の傾向を持つ子どもが、思春期に友人や仲間を得にくい要因として、青木氏が、彼らが他の子どもたちよりも長い間「よい子」であり続けることを挙げている点だ。

一般には、「発達障害」を抱える人が他人の気持ちを読み取りにくいからだと説明されるようだが、青木氏は、思春期に大人から与えられた規範に反発したり、自分なりの規範を作り始める同世代に後れを取って、浮いてしまうのだと感じている。

 

これは、学校生活が息苦しいと感じている塾の生徒に私が常々見てきた傾向と、一致する。
学校規範では救われないから苦しいのに、思春期に入っても「よい子」から抜け出しにくい。

さらに、それは今の子どもたち一般的な傾向であるように思われる。
つまり、自立が難しく、自立に至る過程としての反発や疑問が弱い。
戦後、経済が急成長して私たちの社会や豊かになり、子どもは長い期間教育を受けられるようになった。
そのことはもちろんよいことだが、その分親子の一体化は強くなった。
子どもたちが、思春期以降も長い間親に養われながら、精神的な自立を果たさなければならないという矛盾や困難がある。

また、この自立の問題は、今の子どもたちに始まったのではなく、一般には私たち、親の世代からの課題ではないだろうか。
高度経済成長時代に育った私も、親からの自立はたやすくなかったし、今もまだやり残しがあるんじゃないかと感じている。
子どもたちは、ときに、彼ら自身の自立と、親の自立の問題を二重に背負っている。

つまり、思春期の「発達」が、社会全体として難しいのが今である。
自立や、あるいは思春期自体が難しいという社会の土壌があり、「発達障害」的な戸惑いや苦しみが増えているという面があるのではないだろうか。

 

 

学習会と、テキストの感想

運営委員 山元比呂子

家族以外の人と交流する機会がすっかり少なくなっている中で、この読書会で皆様と充実した話ができて、良い刺激になりました。
参加者の皆さまのそれぞれの視点からのお話を聞くことができて、新たな気づきが生まれました。
人との対話を通じて自分の輪郭を知ることができるというのは本当ですね。
おかげさまで、自分でも考えを深めることができました。
また、今回はいつもより少人数の会だったので、ゆっくりアットホームな感じだったのも良かったです。

 

以下、課題本を読んで考えたところです。

P78 「子どものぼんやりとした身体感覚が「痛い」という言葉に結びついていく。」

自分の感覚に言葉を与えることは、大人にとっても重要だ。
ネガティブな感覚・感情には蓋をしがちだが、そこに向き合って言葉にして初めて、ネガティブな感情に対処できる。
言葉にしない限り、その感情に振り回されてしまう。

P91「(コミュニケーション)以上に大切なのは、何を伝えようとするかだ。」

私自身、若い頃はこの問題を自覚していた。
「なぜ、自分の考えがないのか?」と自己嫌悪になったりしたが、今振り返れば、それは常に受け身の生き方だったからだと思う。
それは、自覚の問題であることは否定はしないが、家庭にも学校にも、自分の考えを持ち、意見の違う人たちと話し合うことを積極的に奨励する文化がなかったことが大きい。
今でこそ、「自分で考え、主体的に行動する」ことが表面上は賞賛されるようになってはきたが、それはあくまで親や教師の意向に沿った範囲内でのこと。
実際には、自分の考えを持ちすぎる子どもは、依然として疎まれることの方が多い。
このような文化の中では、どんなに高い教育を受けようとも、自分の考えを持ち、伝えるべき「何か」を持っている人は稀だろう。

P98「彼らの悩みは、どうしようかという迷いではなく、どうにもならないという結論である。」

発達障害の特徴の一つが、柔軟に考えることができないということだ。
曖昧さ・複雑さを処理できない。
だから、白か黒かになってしまう。
誰かから「論理的で、具体的なアドバイス」がもらえば、白い点と黒い点の間がつながって、やっと納得がいく。
このことは、筆者の言う通り、脳の構造という側面もあるだろうが、経験値の少なさが大きな原因だと思う。
少なくとも、「発達障害的な傾向を持つ」程度の人は、多くの社会経験を持ち、経験値が蓄積されていけば、それなりに克服していける。
伝統的な共同体が崩壊し、子どもが多様な社会経験をつみながら育つ場が急速に少なくなっていることが、発達障害的な傾向を持つ人が増えている原因だと思う。

P106「発達障害の傾向を持つ人だからこそ、できる仕事があるのではないか。」

発達障害を一つの際立った個性ととらえれば、社会の多様性につながると思う。
全員が同じ方向を向いて、同じ能力を競っている社会はもろく危うい。
発達障害の人も含めて誰もが、自分の得意・不得意を自覚し、不得意な分野は人と協業するなど補完しあって、自分の得意を生かして働ける社会であって欲しいと思う。

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