松田道雄著『女と自由と愛』(岩波新書)学習会
(第3回 2016年3月13日(日曜))
3月の学習会には、私の勤める国語塾、鶏鳴学園の生徒の保護者、社会人ゼミ生、卒塾した大学生が参加されました。
テキストの前半を読みながら、結婚や恋人、家庭について、若い人と年配者、社会で働く人と主婦というような、異なる立場の思いが語られました。
例えば、若い女性に、仕事の厳しさから逃れたい思いから主婦願望があるのに対して、子どもが巣立つ喪失感に戸惑う主婦の思いです。
また、自分が不登校になるまでは、父親は、稼いで来ればそれで家庭に対する責任を果たしていると考えていたのではないかという、家庭のあり方への振り返りもありました。
さて、テキストですが、松田氏は、女性にとって厳しい現実社会との闘い方を指南しながらも、女性一般の意識の問題を指摘しています。
まず、結婚は自立した市民間の対等な契約であるべきだが、女性にそういう人権意識が弱いのではないかという問題提起。
また、社会で出世することを重視する「上昇志向」のために、家庭での仕事に誇りを持てないのではないかという問題提起です。
以下、詳しい感想です。
参加者の感想も、一部をご紹介します。
女性の意識と、家庭の仕事
目次
(1) 問題は、仕事と結婚の両立なのか
(2) 女性の人権意識、価値観の問題
(3) 家庭の仕事の孤独
(4) 変革意思
(1) 問題は、仕事と結婚の両立なのか
女性の生き方を論じる本書を、松田氏は「はたらく女と専業主婦」という章から始める。
今回の学習会でも、主婦の不全感やコンプレックスの他、若い女性の、上司の独身女性に対する、自分は「そうはなりたくない」と表現されるところの結婚願望や、彼女が不当に優遇されているのではないかというやっかみなどが正直に吐露された。
女性が、同じ女性の生き方に自分の人生を重ねてみて、その後どんな働き方をするのか、また未婚か既婚かが、複雑な感情を伴って強く意識されている。
女性にそれだけの対立が存在するのには、背景として、現実社会にそれ相応の問題があるのだと思う。
つまり、特に女性には、家庭の外で働きながら結婚生活を送ることに困難がある。
それゆえ、仕事を選ぶ者と結婚を選ぶ者、双方にコンプレックスも生じやすく、対立が起こりやすい。
少なくとも近年まで、その両方を選ぶことに何の問題の無かった男性には、こうした対立は起こらない。
結婚して働くのも、結婚せずに働くのも、今も女性特有の難しさがあるようだ。
その現実の十分な認識なしには、女性の生き方は語れないだろう。
しかし一方で、松田氏は、仕事か結婚かというこの二者の対立が女性の問題の根本ではないと考えている。
(2) 女性の人権意識、価値観の問題
本書は小説仕立てになっている。
教会傘下の幼稚園の園長として、独身のまま先進的な教育に取り組んできた女性と、保守的な教会側、という対立が背景である。
その園長の側に立つ若い女性が、協会側に立つ主婦のことを「なんて料簡が狭いのか」と息巻くのを、筆者がなだめるところから話が始まる。
松田がその女性と手紙のやり取りを重ね、女性の問題の全体を説いていく。
結婚より仕事に気持ちの向かうこの若い女性と、片や、結婚して主婦になったものの、家庭の仕事をすることに誇りを持てない多くの女性との間に、松田は、対立よりも、むしろ共通する問題を重く見ている。
松田は、結婚は自立した市民間の平等な契約であるべきだと述べる。
ところが、女性が、人権意識や職業人意識の低さから、対等な男女としての契約なしに結婚し、無条件に家庭に入ることが多いことを問題視する。
結婚前の職業を辞めることに対しても、また「主婦」という家庭経営の職業に就くこと、結婚に対しても、責任感が薄く、また、自分の権利も主張しないという問題だ。
学習会の参加者の一人は、自分が家庭を守る役割を引き受けるという契約の意識を持って結婚したと語った。
彼女の意識は、松田が問題にしているような単なる恋愛礼讃的なふわふわしたものではなかった。
ただし、彼女に夫と対等であるという意識はなかったという。
私には、契約の意識も、対等との意識もなく、また長くそれに気付かなかった。
女性が、「女も男のするように自分の生き方は自分で選んでいいのだという現代の人権について無知だ」と松田は述べる。
社会に対して閉じた面を持つ家庭の中で、必然的に依存し合って生きる家族の一人でありながら、個人としての人権や自立の意識を強く持つことの難しさがあるだろう。
しかし、
結婚する場合も、しない場合も、自分の人権の自覚を持って生き方を選んでいくべきだという主張だろう。
もう一つの問題として、松田は、社会で出世することを重視する「上昇志向」の問題を挙げる。
主婦の不満や卑屈さの原因の一つは、その立場が「上昇志向」の欲求を満たさないことだろうと述べる。
「大多数の市民は昇進もなく、社会的評価もしてもらえないところで生きています」という松田の指摘は、私が自覚していなかった自らの「上昇志向」に不意に光を当てた。
少し話が逸れるが、そもそも主婦という生き方は、妻が働かなくても生活できるような階層だから成り立つという面がある。(最近は、貧困層に専業主婦が増えているが。)
それは、夫が社会的に「評価」されたことの結果であり、しかし、妻自身への評価ではないという歪みも、私の中にあったかもしれない。
ともあれ、「上昇志向」的価値観の貧弱さを、松田は結婚しない若い女性にも、また結婚した女性にも見ていた。
私は家事が好きだったが、家庭内のことは私事に過ぎないというような意識があった。
それは、高度経済成長期に仕事をした父の意識であっただけではなく、母も含めた家族の意識だったことに最近になって気付いた。
外で夫がバリバリ働くことや、子どもがせっせと勉強することが表舞台であるのに対して、日常や家庭は楽屋裏であるだけではなく、半ば仮の世界だった。
家族の日々の生活の衣食住を支え、彩り続けてきたことに喜びと誇りを感じながら、同時に「仮の世界」に生きる空虚さを抱えていた。
(3) 家庭の仕事の孤独
主婦としての不安を振り返ってみると、松田の指摘する、が挙げる個人的な意識の問題と併せて、家庭内の仕事や問題を、大きな社会的な視点で捉えて相対化することが難しい状況が問題だったと思う。
目の前の問題が一体どれほどの問題なのか、あるいは問題ではないのか、また問題であるとすれば、どう解決すればよいのか。
それらの問いが言葉にもならないままだった。
自分が社会的に評価されるかどうか以前に、他の職業がそうであるように、同じ仕事に取り組む仲間と共に、その仕事について学び、その能力を高めていくことができればよかったのではないか。
家庭の問題は、それだけ重要で、難しい仕事だ。
人の子の親になるというような新しい仕事に対して、また子どもの成長と共に学び続けながら、一つ一つ自覚的に問題解決していってこそ、プロ意識や誇り、また自分自身の価値観を育てていくことができるのではないか。
松田は主婦の生き方の例として、料理教室やボランティアといった活動を挙げているが、的を外していると思う。
誰か他の人のために活動するよりも、まずは自分自身の仕事の能力を高めるような活動が必要だ。
主婦自身が、料理のテクニックなどで悩んではいるのではなく、子どもを社会に送り出すという、社会的な仕事としての子育てについて悩んでいるのである。
子育てだけではなく、家族の関係や病気、老後等々の家庭内の問題は、それを家庭内に留めずに、社会的に学び、解決しなければ、解決の難しい仕事である。
特別な社会的活動が先にあるのではなく、まずは自分の家庭や社会的関わりを直接に変革していく過程の中に、女性が社会に出ていくことの必然性があるのではないか。
(4) 変革意思
松田には、自然でも社会でも、それが人間が生きるのに不便なら、「人間の都合のいいように人為をもって変えていくのが人間」だという信念がある。
「人類の半分の女に不都合にできていたら、つくりかえればいい」、「それができるのが民主主義」だという変革精神だ。
だから、女性にとって、仕事と結婚の両立が難しいことについては、松田はその現実をしつこいくらい強調しながら、しかし、闘って変革すべきだということが前提である。
厳しい現状を甘く見ずに、社会が男本位なら闘い、また、家庭の中では男女平等を実現できると説く。
松田が、結婚を勧めるというようなおせっかいをするのは、生活の中で地道に闘うための戦略であり、闘うことが前提になっているのだ。
厳しい状況や、他者の意向が前提になるのではなく、変革が前提である。
問題は、そういう変革の意識が私たちにあるのかということだ。
松田はそれを問題にしている。
また、松田は子育てについて、「自分の生き方を大事にする母親」が、「自由の喜びを知った自立した人間を育てられる」のだと、母親の生き方を問う。
一方で、松田は、母親のやさしさが子どものやさしさ、良心を育てるとも述べる。
「あれこれの戒律を教えるのが家庭の道徳教育ではありません。人からやさしくされることがどんなにいいことかを、あかちゃんの時代から教わるのが家庭です」。
社会主義の「家庭不用論」の失敗を目の当たりにし、また、小児科医として長年、子育てや家庭の意味を考えてきた松田らしい言葉だ。
しかし、私たちが考えるべきは、後者のような、母親の「やさしさ」といった自然的傾向の礼讃ではなく、前者の、母親がその人為をもって、いかに一個人としての「生き方」をつくれるのかという問題である。
子どもが自分自身を尊重するような強いやさしさを育むのは、前者によるだろう。
「自由の喜びを知った自立した人間を育てる」とは、現状に適合するような人間に育てようとするのではなく、身近なところから変革して生きていけるような人間を育てることではないか。
母親自身がそのように生きているのかが問われる。
管理社会に呑み込まれるのではなく、個人を守り、確立するような家庭経営を松田は主張する。
単に現在の社会に適合し、また適合する人間を育てようとして、会社や学校に振り回されるような家庭ではなく、逆に個人の砦になるような家庭。
例えば、子どもが学校で問題を起こしたら、親が学校と同じ側に立って子どもを責めたり、また単に子どもに同調するのでもなく、学校と十分に話し合って、学校と親の変革に取り組むような姿勢ではないか。
私たちの多くが経験した、戦後の男女の完全分業も、その役割を果たし終えて行き詰った。
そこから出てくる答えは、対等な男女がチームとして家庭を経営し、また、「上昇志向」を変革意思へ切り替えていくことではないだろうか。
◆参加者の感想より
生徒の保護者、Aさん
少し前であれば、「主婦の生きがいは何か。」という問いに、「家族の幸せを願い、支え、応援し続けること。」と、何の疑問も抱かずに答えていたと思います。それが良い母、良い妻であり、私自身の幸せでもあると信じていたからです。勿論、今でも著者の言うように、「家庭が精神を安定させる」場所になることは大切だと思っていますが、問題は、私自身の生きがいがそこにしかなかった点にあった、と学習会を通して認識することが出来ました。
主婦の生きがいについて、「私が問題にしているのは、ふつうの女の人が主婦になることと、自分のえらぶ人生を生きることと両立させられるかということです」と著者は書いています。子育てや家事などの仕事をしている主婦としての自分、プラス、一人の個としての自分があるべきだったにも関わらず、いつの間にか、主婦がイコール自分の全てであり、主婦の仕事の中にしか生きがいを見つけられなくなっていました。
子供たちが成長し、手助けを全く必要としなくなった今、この先の人生をどう生きるのか、これからも学習会に参加して答えを探したいと思っています。もしもこのまま、家族に依存した状態で過ごすのであれば、自分がないままに生きることになるからです。以前、主婦として同じような悩みを抱えていた参加者が、例え仕事をして収入を得て経済的に自立をしたとしても、精神的に自立をしない限り何も変わらなかったという意見が胸に響きました。
社会人ゼミ生、Bさん
専業主婦の時期に自分がどんどん卑屈になり、再就職したこと、再就職して卑屈な気持ちが軽減した、と知人の体験として聞いたことがあった。自分自身も収入を得たことで気持ちが安定したことを思った。だから、「稼ぐ」ことは自分が胸を張って生きるための確かな要素だと思っていた。しかし、学習会の中で田中さんが、過去にパートに出て自分に現金収入を得たが気持ちの辛さは何も変わらなかった、と話すのを聞いて、自分を支えるために、収入は大きな要素の一つだが、それだけでは自分の空虚感を解決できないのだと思った。そして、現在鶏鳴学園で中学生クラスを持ち、家庭論学習会を主催する田中さんが、今は過去の気持ちの辛さとは全く違う、もっと良い授業をしたい、授業も学習会も辛いけれど、と力強く話すのを聞いて、勇気をもらった。そして自分の中の穴を埋めるのは自分でしなければならないのだ、と改めて思った。
生徒の保護者、Cさん
この本が出版された1979年以来、日本は、男女雇用均等法、バブル経済とその崩壊後の不景気、就職超氷河期、格差問題、SNSの普及、アベノミクなどいろいろな時代を経てきました。
結婚後も働き続ける女性が増えたり、女性を取り巻く環境は大きく変わっているようにも見えますが、 一人一人が抱える問題は本質的にはあまり変わっていないと感じました。それが、一人一人の内面の問題なだけに、公の場では語られる機会がありません。
主婦として家の中で働くのか、外で働くのか、いずれにしても誇りを持って生活できるように選び取っていけないと思いました。
社会人ゼミ生、Dさん
意見交換の時間こそが、この学習会では重要だと感じた。意見交換でいかに自分の経験をこの場で話すか、言葉にしていくか。学習会を使ってそれぞれの自己理解を深めることこそが重要ではないか。具体的に言えば、自分が果たした子育てはなんだったのか、自分にとって家庭とは何なのか、本来どうあるべきか、に対する答えを自分で出すことだ。
また、50代の参加者が「これから20年生きなくてはいけない」と言っていた言葉が重く心に響いた。課題は盛りだくさんなのだ。大変だ。私自身も生きるうえで必ず答えを出さなくてはならない問題が立ちはだかっていることを今回自覚した。
社会人ゼミ生、Eさん
私のように社会に出たばかりの女子の中には、仕事を持つことで背負う責任やプレッシャーを感じ、そこから解放されたくて専業主婦に憧れる人も少なくない。私も、転職先に合格するまでは、現状が辛すぎて専業主婦もいいかもしれないな、と安直に考えていた。しかし、専業主婦も配偶者のお金でランチを食べること、自分が常にお客様であることへの違和感など、経済的、精神的にコンプレックスを抱えているということを知り、楽な道などないのだと心を戒めた。
専業主婦になるにせよ、仕事を持つにせよ、いずれにせよ、「楽になりたい」とただ流されているだけでは、家事と仕事の両立がむずかしい現代の社会においては、自分の人生への不満が大きくなってしまうのだろう。
松田の本には、結婚時の財産契約などの提案があったが、これらの提案から読み取れるように、自覚的に家庭を運営する、自分の道を選ぶ、自立する、ということは、家庭を持つ女性の必須課題であると感じた。
また、本の中で随所に見られる、家庭を持つことによる「安定」という言葉に引っかかりを感じた。私の年代の日常会話においても、「早く安定したい」=「早く結婚したい」であるということは、結婚を安定の手段と考えることが世間認識では一般的なのではないか。結婚すれば安定するという神話があるのではないか。しかし、裁判所で働く私の実感としては、家庭を運営する覚悟を持たない人が家庭を持つことによって、かえって家庭の深刻な紛争といった、安定と真逆なことが生じている。
結婚とは安定ではなく、互いが協力して、個々の人生の質を高めながら、一緒に生きていく(家庭を自覚的に運営していく)ことではないか。今回の学習会を通じて、本や意見交換が鏡となり、自分を深められたこと、それがなによりの収穫だ。
卒塾生、大学生、Fさん
今回の家庭論学習会では、専業主婦や働く主婦の区別を問わず、主婦一般が社会で自立するにはというテーマだった。この自立というのは、実は主婦、女だけでなく男の方にも関わっている問題、即ち人全体に関わっている問題だと思う。
私は大学生の男で、2月、3月は春期休業なので専ら家にいた。そこで私は家にいるとよく「自分はこれからどうやって生きていくのだろうか」という不安を持ち、それしか考えられなくなる。不安を紛らわすために美術館や本屋に行っても、帰ってくればまた不安になる。
多くの主婦もまた、日常の中で自らの人生や社会的な意義について悩んでいる。そしてその悩みは、非日常によっては解決されない。
こうして見ると、主婦が悩む「どう生きるか」という問題の根底は、女性だけの問題ではなく、「人の自立とは何か」という普遍的な問題だ思う。
それが主婦独特のように思えるのは、第一に近代以来の男女分業の名残があって「主として男が稼ぐ」という考えが一定数あること、第二に女性が現実的に男女不平等の風習に苦しんでいることの二点からだ。
因みに、第一の分業精神は「4低」という言葉の流行に象徴されるように、少しずつ変わっていると思う。勿論、分業の崩壊に対し「男は女から求められすぎている」という反対の声が多く上がっている現実もある。このような声を挙げるのはもっとものように感じられるが、これは建前としての男女平等に男も惑わされ、本音としての身体的な宿命等に起因する第二の問題、即ち風習としての男尊女卑という現実を見据えていない意見ではないか。
まとめると、主婦の生きがいという問題は人の自立とは何かという人間の普遍的な問題と、女性が家庭の内外で直面する男尊女卑という問題が重なった問題だ。