重松 清 著 『エイジ』(新潮文庫 2004年)
2017年12月3日(日曜)
昨年10月の学習会に続いて、12月も「思春期」をテーマとしました。
10月に参加者の一人から、中学生の娘に以前のように明るく活発であってほしいという思いを聞いて、今回は、思春期に葛藤することこそ成長の証だと思えるようなテキストをと考え、小説、『エイジ』を選びました。
主人公の中学生、エイジのように、周りと対立し、また自分自身と葛藤するのが思春期であり、その対立や葛藤こそが大切な成長の芽だと思います。
以下、私の感想と、参加者の方の感想を掲載します。
思春期の対立と葛藤が成長の芽
この学習会をスタートして三年目に入り、今回初めて小説をテキストにした。
「思春期」を外側から解説している本ではなく、思春期の子どもの側から何がどんなふうに見えるのかを描いた『エイジ』を選んだ。
当時30代の小説家、重松清が中学生たちの気持ちを代弁しているのだが、リアルに描かれている。
エイジの同級生が「通り魔事件」を起こしたことによって、エイジたちの目に大人や世間の矛盾や悪がくっきりと見える。
事件をなかったことにしたいかのような教師たち、騒ぎ立てるマスコミなどに対してエイジは疑問だらけの中で、彼自身の矛盾や悪にも目覚めていく。
友人が「シカト」されることに対して態度を決めかねたり、その気もないのに女子生徒と付き合い始めたり、親にキレたりと、無様な自分に直面する。
よいことなど一つもないかのようだが、これがエイジの成長の過程だ。
他者に疑問を持ち、対立し、また自分自身に疑問を持ち、葛藤する。
外との分裂と、自分自身の中の分裂に足を踏み入れるのが思春期だ。
それ以前の、誰とでも仲良くできて、何にでも溌剌と取り組めるというような子どもには、もう戻れない。
むしろ、他者と対立するのが現実社会であり、その現実を自分で生きていけるような大人に向けて、一歩成長したのだ。
あれは嫌だ、これがいい、こんな人になりたいというような自分の好みや興味関心がはっきりし始める。
成長したから苦しく、しかし苦しいのはさらなる成長の芽だ。
もし、その苦しんでいる思春期の子どもに対して「以前の素直なあなたのほうがよかった」と言うなら、成長するなと言っていることになる。
一旦いくらか自分が壊れることで、親から与えられてきた生活を、自分自身の人生として捉え直し、つくり直し始められるかどうか。
中高生はその転換点に立っている。
エイジのように一時期勉強が手につかなくなるというような「一時停止」があったり、あるいは後退しているように見えることさえある。
ところが、「一時停止」や、疑問や否定、対立はよくないというのが現代のトレンドである。
ぐずぐず悩むよりも「プラス思考」、「ポジティブ」が好まれる。
とにかく大学受験まではと、葛藤には向き合えずに走り続ける子どもも多く、近年大学の学生相談室は利用者の増加が止まらず、どこもパンク状態のようだ。
子どもの思春期の対立や葛藤、「一時停止」の意味を十分に認めて、その苦しい過程を経て自立していけるように、見守り、後押ししたい。
それは、私たち自身が対立や問題に向き合って生きることによってはじめて可能なのではないか。
◆ 参加者の感想より
中学生の母、Aさん
今回は小説がテキストということで、専業主婦をしていた母が子育てしながらよく参加していた「読書会」なるもの、自分の仕事を持ってしまい生活とでいっぱいいっぱいの私には全く縁がなく、羨ましく思っていたので、なんだか嬉しい気持ちで出席させていただきました。主人公のエイジが、娘と同じ中学2年生というのも、興味がありました。
エイジやそのクラスメイトたち、描かれるのは男子が多いですが、みな思春期真っ只中の中学2年生、それぞれの人物の揺れる心がよく表されていたと思います。
前回の学習会で学んでから、思春期というのは、自分自身の中に、またそれだけでなくあらゆる物事や人間に二面性を見つけ、悩んでしまうことではないかと考えるようになりました。そうすると不思議なことに、反抗ばかりだと思っていた娘の言動にも納得がいくような気がしてきていました。
今回もそれは、内的二分化という言葉で先生に表していただき、どの登場人物も見事にそう揺れているのがよくわかりました。
エイジを追ってゆくと、なんだかよくわからないけれど理由がある、という思春期の言動がよくわかります。大人たちはそれを、なんだかよくわからないもの、として片づけてしまいます。しかし思い出してみれば自分もそうであったように、なんだかよくわからないけれど理由はあった、のです。そこを、大人はよく理解し忘れないようにしないとならないのではないかと、この本を読んでいて感じました。
ではそのような思春期に、親はどう関わるか、という答えは書かれていません。しかしそれも、登場人物を並べて出来事を追っていくうちに、すこし見えてくる気がしました。思春期の中学生の内面を、理解しないのは学校の先生達。理解しようとするのは、中学生の世界の外にいる、マスコミの大人。それに対して、毎日生活を共にする両親というのは、内面には直接関わらず、距離を保ってしかしそれぞれのスタンスを貫いています。子どもを理解しようと内面に立ち入って、揺れる中学生と一緒に揺れてしまったら、毎日の生活が立ち行かなくなってしまう。親というのは、もしかしたらこれでよいのでしょうか。
いまの思春期という問題には、そんなことを考えさせられた一冊でした。小説としては、それぞれの人物の心理がよく描かれているようで、最後まで興味深く読めました。
高校生の母、Bさん
重松清の作品はいくつか読んでいて、好きな作家だったが、エイジが課題図書となって一読してみて、率直に言って、エイジは何とも捉えようがなく、他の重松作品に比べてつまらなく感じた。
でも、子どもに、この作品は中井先生の「日本語トレーニング」でも取り上げられている本だと聞いて、少し関心を持った。
そして、学習会の場で田中先生の解説を聞いているうちに、「あぁ、そういう趣旨だったのか」と気付くことがあり、全く自分の感性が干からびてしまっていたことに気がつく有様だった。50半ばにして堂々のおばさん(夫の言葉で言うとbaba)になっていた私から見て、中学生の感性はなんと繊細なこと! 解説付きじゃなきゃ、わかんない! 私も遠い昔には同じようなことを感じていたのかなー、と言うのが率直な感想だった。
それはともかく、その後に「日本語トレーニング」にも興味がでて読んでみた。冒頭に出てくる「道徳教育でない論理トレーニングが、現実と戦う力になる」という箇所に、少し涙ぐんだ。私の悩みは、何も特別なものではない世間にはありふれた悩みだが、なんとなく説得力を感じたのだった。まだ全部は読めていないが、ちょっとずつでも読んでいこうと思った。