『子どもと学校』学習会報告

日時:2020年8月30日(日曜)14:00-17:00
テキスト:河合隼雄著『子どもと学校』(岩波新書1992年)

 

久々に学習会を行いました。

コロナ禍にあってオンライン開催だったことにもよるのか、今回はお父様にも3名参加していただきました。
子どもの教育は母親に任せっきりという家庭はこれまで少なくなかったと思いますが、社会は確実に前へ進んでいるのだと実感します。

また、現在就活中という大学生のお母様の話は、中高生の親御さんたちの悩みの、多少の相対化になったのではないでしょうか。
大学受験のときから、本人の自主性次第だと思ってはいたけれど、社会から隔絶された学校で自分を確立することも難しく、ますます自主性が問われる社会で息子がやっていけるのか不安だと話されました。

なお、私が最近授業や学習会を通して感じていることは、人間の子どもというものは、親のすさまじいまでの子への思いがあってここまでに育ってきたのだなあという思いです。

また一方で、それでも、というか、それだから、いったいどこを目指して教育するのか、その方向性のあり方が重大だと思います。
河合氏もそのことを論じています。

以下に、今回のテキストに沿って私の意見や疑問を述べます。
そして最後に、学習会参加者の感想の一部を掲載します。

 

1.「価値の一様性」

価値観の多様化が進んだと言われているが、逆に「勉強ができる子」がよい、「素直なよい子」がよい、という価値の一様化が進んでいると、河合氏は述べる。
大人のその狭い考えは、子どもの問題として表に現れ、そのとき大人は、それを子どもの問題ではなく、自分たちの問題として受け止めて、生き方を深く考え直すべきだと。

しかし、こう言われて、それが自分の問題だと思う親はどれくらいいるだろう。

私も、子どもを育てていた頃、「勉強」がすべてだなどとは思っていなかった。

しかし、じゃあ「勉強」以上の価値は何かといえば、私はそれを明確に持ってはいなかった。
今は、それは「自立」だと考える。
自分の考えの基準やテーマを持って生きられるようになることを、はっきりと教育の目的とすべきだ。
「勉強」はそのための手段である。
そして、子の「自立」を達成するには、親自身も「自立」を追求しなければならない。
そう考えるようになるまで、私は結局、「勉強」と「素直」という一様化した世間の価値で、子どもを育てたのだと思う。

このテキストが書かれてから30年経っても、この問題は今も変わらず、そして大人だけではなく、中学生たちに深く浸透していると感じる。
彼らの多くの意識は、「勉強」ができるといった、教師や親にほめられる生徒を評価し、校則を破るなどして大人に叱られるような生徒の価値を低く見る。
校則の意味を疑うこともなく、正義にもとることをした訳でもない生徒を、教師だけではなく、生徒までもが責めたりする。

大人の価値観がそのまま子に刷り込まれるのは当然だが、そこに疑問を感じ、超えていく可能性が生まれるのが思春期だ。
ところが、その大人や社会への疑問や不満が、きれいに折りたたまれて片付けられたり、不発だったりと、「よい子」が多いと感じる。

 

2. 思春期=『さなぎ』=不登校

河合氏は、不登校を論じたⅢ章4節で、思春期を「さなぎ」に喩えている。
人間が子どもから大人になるのはなかなかたいへんなことであり、「毛虫が蝶になる中間に『さなぎ』になる必要があるように、人間にもある程度『こもる』時期が必要」であると。
そして、「思春期から青年期にかけて、ほとんどの人に、それは何らかの形でやってくる」、何もする気がしないとか、勉強に身が入らないといった形であると述べる。
多くの中学生が、彼ら自身の悩みとして口にすることだ。

河合氏はⅠ章で、そのように立ち止まるということが「内的成熟」のために必要だと論じている。
「内的成熟」こそが思春期に遂げるべき成長だということだろう。

そして、その『さなぎ』の状態が「よりきつい形であらわれてくると、不登校」という形になると見ている。
つまり、彼にとって、思春期と不登校は地続きである。
実際、不登校は、当時も今も中学生に顕著である。
2018年には12万人、中学生全体の3.7%にまでなった。
さらに、不登校気味や教室に入れない等の「隠れ不登校」がその3倍と言われている。

 

3. 思春期の意味

鶏鳴学園では、思春期を、人間の成長の三段階の中の二段階目として考えている。

まず、人間は、生まれてから思春期を迎えるまでは、親と一体の全き世界に生きる。これが第一段階である。

しかし、思春期を迎えると、友人の好き嫌いが明確になり、親や教師など大人との対立も起こる。
外に対立があり、そして彼らの内にも対立する思いがせめぎ合い、葛藤する。
つまり、全き世界に「ひび割れ」が入る。
『さなぎ』にもなる。
人によって、「ひび割れ」がどのように表に現れるのかの違いはあっても、思春期の生徒たちは、誰もがこの第二段階にある。

その「ひび割れ」をどう捉えて親からの自立を果たし、大人になれるのか、自分の答えを出し、自分の世界をつくっていけるのか。
その第三段階はまだ遠い目標だが、「ひび割れ」をしっかり自分で生きて、自立に向けて歩み始めることができるのかどうか。
それが、思春期の課題だ。

ところが、教師や親が、とかく彼らを第一段階に引き戻そう、引き戻そうとしているように見える。
学校での生徒たちの関係は対立だらけだが、「級友のよいところを見るようにしなさい」、「言葉遣いに気を付けて、他人を傷つけないように」と教えることが多いように思う。
第二段階の対立を表面的に回避させようとするばかりで、生徒と共に対立に取り組もうという試みはどれほどなされているのだろうか。

また、学校と親がタッグを組んで、子どもの勉強の管理を強めている。
定期試験の各教科の点数が、学校から親に逐一報告されたり、何時から何時まで何の勉強をしたのかといった生活記録を提出させる学校すら少なくない。

子どもの方でも、友人間の対立や葛藤によって心の中は嵐でも、一方で、対立は面倒だからなかったことにしたい思いもある。
成績を親に責められれば、勉強にやる気が出ないことには蓋をして、おとなしく言うことを聞いておこうとも思う。
第一段階に戻りたいという思いが、彼ら自身の中にもある。

しかし、第一段階の、一体の世界に戻る道はない。
第三段階に向かうための、第二段階の「ひび割れ」や「さなぎ」の意義を正しく認めなければ、先が無い。

 

4.「父親の役割」

河合氏は、本書の中で、直接には父親の役割を論じていない。

しかし、「不登校」を論じたⅢ章で、思春期を迎えた子に一個人として向き合う父親を登場させる。

また、「母性原理」に対する「父性原理」を論じたⅠ章で、親が、子と「一対一で対決し、自分の個人の意見を言うという強さ」を持つ必要性を論じている。
親の個人の確立、つまり自立だ。
子どもが小さいときに母親を助けるイクメンの役割だけでなく、子どもが思春期を迎えたとき、いよいよ父親特有の役割が問われると、私も思う。

ここで断っておきたいのは、母子家庭の場合も、子の思春期には「父親の役割」なるものを意識し、ときには家庭の外の力も頼んで、それをつくっていくことは可能だということだ。

「父親の役割」とは、思春期の最大の課題である、子の親からの自立と、親の子離れのために、特に母子一体化を壊す役割だと思う。
思春期以前の子どもの教育から、思春期以降の新たな段階の教育に切り換えるためだ。
「父親」が常に子どもの教育に関わる必要があるということではなく、その転換をサポートすべき出番というものがあるのだと思う。

多くの家庭では、母親が子どもの誕生からずっと、その生活に密着して世話をしてきて、思春期の今もそれは多少なりとも続いているだろう。
その母親が、子の生活や人生と精神的に一線を画すという切り替えは、母親だけで成し遂げるにはあまりに大きな転換だ。
子どもが社会で生きていく日が近くなったとき、「父親の役割」が問われるのだと思う。

子の新たな成長段階への移行、発展のために、親も「自分自身の生き方について深く考え直す」、そして子育て後の人生をつくっていき、子離れするためである。

 

5.「個性」とは?

このテキストにおいて、河合氏の「個性」の捉え方には疑問を感じた。
主にⅡ章だ。

まず、彼は「個性」を、小さい子どもが元々持っているものとして考えているように思われる。
「子どもが個々にもっている個性を壊す」、「個性の強い子ども」といった捉え方である。
もちろん、小さい子どもにも、身体的にも、性格にも差異があり、それぞれ家庭環境などの背景が異なる。
彼は画一的な教育を批判し、まず個々の子どもの多様なあり方やバックグラウンドの理解が、教育の土台にならなければならないと主張しているのだろう。
それは重要な点だ。

しかし、「個性」の教育を論じるときに、小さい子どもの先天的な差異や、家庭環境といった本人にとって偶然による差異を、「個性」と呼んでよいのだろうか。
私は、「個性」とは、思春期を迎えた子どもが、自ら自己理解を深めて自覚的につくっていくものであり、その問題意識であり、考え方や生き方ではないかと思う。

また、河合氏は「自我の確立」を論じながらも、「集団の一般的傾向と異なる生き方をすること」が「個性」であるかのような論に流れている。
他人と異なるかどうかが「個性」の基準にはならない。

 

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<学習会参加者の感想>
中学生の父、Aさん

学習会は初参加でしたが、「個性とは何か」という事を考えるにあたり、河合隼雄が示した事例に対しても、きちんと点検して疑問を持つという着眼は勉強になりました。

息子が思春期を迎え、親の生き方や考え方が問われている事も含めて、親子の関係が新たなステージに入ったことをあらためて実感する良い機会となりました。

大学生の母、Bさん

「子どもと学校」を読んでみて、強く印象に残った箇所が二つありました。

(1)「問題児というのは、われわれに問題を提出してくれているのだ。学校へ行かなくなった子は、大きい「問題」を親や教師に提出している」(p7)

子どもに問題があったとき、親は、子どもの問題を解決する手助けをしようとする。
親自身が属している大人社会に、子どもがうまく適応できるように手を貸そうとする。
親も、社会に多くの問題があることは勿論わかっている。
でも、社会が変わるより早く子どもの方が大きくなっていくので、どうしても、子どもが今の社会(その一部としての学校)にうまく適応していって欲しいと思ってしまう。
受験が差し迫っているときは、尚更だ。
でも、ここに問題が潜んでいる。こういうときに、子どもが親や教師に問題を提出する。
問題を提出されても、なかなか親にも答えは見つけられない。
鶏鳴学園で聞き書きを推奨している意味はここにあると思う。
完全ではない世の中で、完全ではない親がどのように生きてきたか。
理路整然とした説教よりも懇切丁寧な説得よりも、不格好な親の姿に、子どもは感じるものがあるのだと思う。

(2)「「お勉強」で固められ、遊びの少ない人間は、成人してから創造的な仕事を達成できないのである」(p16)

言うまでもなく、教育はとても価値のあるものである。
でも、教育だけが価値のあるものなのだろうか。
子どもが、学校・部活動、塾・お稽古事で過ごす時間はとても長く、一日の時間の大半を占める。
これらの場では、子どもは「教えられる側」であり、その場のルールに従うことが要求される。自分なりのやり方でやってみる余地はとても少ない。
創造性を育む「教育」ができるのかどうかは、私にはわからない。
でも、時間に追い立てられるような生活の中からは創造性は生まれないだろう。
子どもが幸せを感じるところから、想像性が生まれてくるのだと思う。

中学生、高校生の父 、Cさん

【子どもと学校の内容について】

(1)  世の中で多様性が求められる中,学校における価値の一様性は,本書の書かれた1992年から30年近くたった今日でも大きく変わっていない。

(2)  会社などの社会でも, 父性=息子と一対一で対決し,自分の個人の意見を言うという強さ=自立 がより強く求められているが,学校・教育でそのような対応ができていない。

(3)  思春期は「さなぎ」で殻のなかでは常人の想像を絶した変化が生じているという表現は素晴らしく,とても腹落ちした。

(4)  父親として「干渉はしないが,放っておくのではない」接し方を目指したい。

【勉強会の内容】

(1)  子供から思春期を経て大人になる過程の説明を伺い,管理ばかりしていると,子供状態に留め置くことになり,自立した大人への成長を阻害してしまう。ということが理解できました。

(2)  素直なよいこだけでは自立できない。思春期は分裂・反発・対立・問題意識(怒り)を通じて成長する。今まさにその時を迎えている。思春期もしばらくは続くという心の準備をしておきます。

(3)  鶏鳴学園の大学受験に向けた(裏)テーマとおっしゃっていた「親子それぞれの自立」という事を肝に銘じ思春期の子どもたちと接していきたいです。

(4)  参加されたみなさまからも普段は接することができない,思春期前後の子を持つ両親としての育児へのかかわり方・悩みなどのお話しも聞くことができ,非常に参考になりました。

中学生の父、Dさん

<価値の一様性について>

「価値の一様性」の問題は回避すべきと感じるものの、その代替となる価値を自ら見出すことは容易ではない。例えば、「勉強して、テストでよい点とって成績表が高いほうが良い子」、という価値ではない、別の価値を見出すのは簡単ではない。仮に、勉強の代わりにサッカーという価値を見出しだとして。サッカーの世界では、「ボールを強く蹴れる、足が速い、相手にまけない、試合で点がきめられるのがよい子」という目指す価値があって、それ以外はだめだとされている。これは、学校の世界における一様な価値としての、「勉強ができる」ことを押し付けることと、同様の問題がスポーツ界でもおきていることになるのか?

一方、一様となっている価値には、現代社会において、合理的だと考えられる要素もある。それは経済に関連する話で、それで食べていけるかどうかにという観点で設定されているのではないか?構図としては、勉強して会社にはいってお金を稼げて、のような流れを意識しての、入り口としての勉強してなのか。と。自分で一周して考えて、結果、自分が納得する価値を見出した場合、その結果、その価値が他人とたまたま同じであっても、それは価値の一様性が問題であるとは言わないと考える。

<親が「待てない」ことについて>

まわりみちをして子供が自分で気づき・発見したほうが、そのあとの伸びは早いと考えるものの、自分の人生は一回きりしかないので、気づきが遅い・気づき後の行動が遅い場合、大切な時期を逸してしまう恐れもある。中学校や高校の期間は終わっている場合もありうる。

「待つ」べきだと思うものの、その待つ時間は、期間ごとに何をやるべきかを設定して、その期間内に即して実践的に設定すべきと考える。自立できるまでまっていたら、一生終わってしまう。

中学生の母、Eさん

田中先生や皆さまのお話は興味深く、あっと言う間に時間が過ぎました。
とっても古い本でしたが根本的な捉え方や考え方、関わりについてはいつの時代も共通しているのだなあと感じながら本を読んで学習会に参加しました。
お父様も参加してくださったお陰で多方面からの意見が聞けて楽しく聞かせて頂きました。
学習会に参加して、思春期のひび割れた状況から子供がどのように大人になっていくのか、きっと見守る事がとても大切なんだと思います。自分で体験し感じること失敗することで大人になって行く。今、思春期で子供も親も大変ですが見守る様、心掛けたいと改めて思いました。しかしそう簡単には行かないのですが、親も我慢ですね。
お金の話で家の家計の話をすると良いと言われて今まで全くした事がなかったので又じっくり話して見ようと思いました。
今回はお話を聞かせて頂いてばかりでしたが貴重な時間となりました。

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