日時 :2020年12月12日(土曜)14:00-16:30
テキスト:西郷孝彦 著『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』(小学館)
昨年12月に、8月に引き続きオンラインで学習会を開催しました。
学習会が終わって間もないころ、福岡県弁護士会の調査による「ブラック校則」の新聞報道がありました。
福岡市立中学のなんと8割で、生徒の下着の色を指定していたとのこと。
みなさんも驚かれたのではないでしょうか。
教師による「下着点検」が行われていました。
『校則なくした中学校』が校則をなくしたのには、それだけおかしなことになってしまっている中学校の現状が、背景としてあるのだと思いました。
ところで、その「下着」の校則に比べれば、学校で制服や靴下の色が指定されているのはごく一般的なことです。
指定の色とは異なる靴下をはいて登校すると、注意を受けるようです。
しかし、下着ではなく、靴下の色なら大したことのないことなのだろうか、とも思います。
教師からそういった校則を示され、生徒は無条件に従わなければならない、校則を変えようなどとは思いもつかない、変えることができるのかどうかも知らない、それが生徒たちの現状です。
果たして、その教育の目的は何でしょうか。
「世界を変えなさい」
世田谷区立桜丘中学校の校長を十年務めた西郷氏の教育理念は、「世界を変えなさい」である。
学校は何のためにあるのか。
たいていの学校では、生徒が今ある社会に適応して生きていけるようにということが教育目標になっていないだろうか。
それに対して、西郷氏は、今ある社会を変えていける人間を育てることを教育目標とする。
1.彼自身が学校を変えて見せた
彼はそれまであった校則をなくしてしまった。
何のためだったのか。
制服を着なければならない、遅刻してはいけないといったことが、生徒を委縮させるケースがあることに気付く。
そらならと取っ払って、学校を生徒が安心できる場にしようとした。
しかし、彼はたんに生徒を「自由」にしたのではない。
今あるルールを疑い、教育の本質を問うた。
本来人間に備わった「よく生きよう」という意志は、「安心して過ごせる、安心してみずからを表現できるような環境の中で」発動するのだと彼は述べる。
それを妨げる校則を廃止し、生徒がよりよく学べるように具体的な施策を次々に繰り出す。
校則にただ従うのではなく、自分で考え、判断できる力を養おうとするのは、生徒たちが自分でこの社会を変えていけるようにするためだ。
教師は生徒会が決めたことの実現に奔走し、かつ、様々な立場や利害が絡む現実も学ばせる。
当然、教員に対しても、授業や法律をきちんと勉強して教育界を、そして世界を変えなさいと求める。
そのために管理職を目指しなさいと。
そして、彼自身が学校を変えて見せた。
2.批判精神
なぜ、西郷氏は学校を変えることが出来たのか。
まず、彼の批判精神がその本質だと思う。
茶髪にしてきた生徒の後ろに何があるのかを見通す彼の深さと温かさは、ときに生徒への批判の言葉にもなる。
教師の考え方も厳しく批判し、また、どの教師が生徒から人間として評価されないかを露わにして、育てる。
教育とは「心を引っ掻き回すこと」、つまり固定観念を覆し、前提を疑うことを教えることだと彼は考える。
批判精神を育てることが教育なのだ。
彼は、大学卒業後最初に配属された「養護学校」(現 特別支援学校)でも、生徒たちに、周りに世話になっているという遠慮や卑屈さがあると気付き、それを「ぶち壊してやろう」と、抑圧を解き放つような楽しい企画を仕組んでいった。
批判精神を別の言い方にすれば、彼は問題を見ようとする人だ。
漠然と生徒全体を捉えようとするのではなく、「問題を抱えた子」、「困っている子」に焦点を合わせるべきだと繰り返し述べる。
問題にこそ組織の本質が現れると捉え、また、そこに学校をよりよくしていく可能性を見るのだろう。
「問題を抱えた子」に集約して現れてくる問題は、一見問題のない他の生徒たちの抱える息苦しさとつながっていると、私は実感している。
また、学校の「スマホ禁止という建前」への西郷氏の批判に賛成だ。
スマホやSNSに関して実際に生徒間で問題が多発しているのだから、たんに「禁止」にするのは逃げである。
3. 学校を社会に開く
西郷氏は、学校を社会に大きく開く。
これが、彼が学校を変えることが出来たもう一つの本質だと思う。
校則はなくとも、法律はあるのだと、彼は学校に警察を入れる。
暴力の問題はもちろんのこと、学校で物がなくなれば警察に頼み、鑑識が来て指紋や証拠を集めて行く。
内内に処理するのではなく、問題を公にする責任を負って、中学校も社会であることを生徒たちに示す。
教員に対しても、「転職」を心に抱けと、教職を離れることも勧める。
教員免許を取ったから一生安泰という前提を考え直すべきだと。
その前提が人間の成長を止めてしまい、また、いざというときの逃げ道をなくしてしまって「教員の心の病」の問題にもつながるのではないかと。
また、彼は学校を変えるために区や教育委員会を巻き込むのはもちろんのこと、企業や地域のあらゆる人たちとどんどん手を組んでいく。
自分で世界を変えるという彼の理念が、地域の人の志と響き合い、それが活きる。
そういう風に私も生きたいと思う。
4.何も変えられないと教える教育
西郷氏は、80年代に赴任した、荒れる中学校で、「生徒が生徒を締め付ける」ところに学校の問題を見る。
「自分たちが力で押さえつけられ、学校を楽しめないので、なぜか下級生に対しては教員の代弁者になって、少しでも楽しんでいる下級生を見つけると、「調子に乗るな」と脅したりします」。
これはたんに過去の話ではなく、教師の管理を真似て、生徒が生徒をバッシングし、ときにはいじめに発展することが何度も述べられている。
私も、塾の生徒たちを通して、度々その事例に見てきた。
すっかりおとなしくなった今の中学生たちも、教師の側に立って、校則を破った生徒を責めることが少なくない。
バッシングを受ける生徒だけではなく、バッシングする生徒にもどれだけの不安や抑圧があることか。
多くの中学生にとって、あれをしてはいけない、これをしてはいけないという校則は、ただ教師から示され、無条件に守らなければならないものでしかない。
上からのその抑圧自体を疑うのではなく、逆に、そこから外れた者をさらに抑圧する。
もちろん、指導の責任を負う教師の側に、校則決めに対して生徒より強い権限があってもよいだろう。
しかし、生徒の側に、校則を変える権限が一切ないとしたら、その教育は彼らが社会で生きていくときのためになるのだろうか。
それでは、社会に出て様々な困難や問題にぶつかったときに、すべてをたんに個人の自己責任としか捉えられず、組織のルールを疑うことができないのではないか。
また、人権を保障する法律や組織のルールを盾に、自分の身を守ることもできないのではないか。
校則は本来、たんに生徒の権利を制限するのではなく、その権利を守るためのものでなければならない。
5.社会は変えられる
生徒たちが毎日長い時間過ごす学校に安心が無いのは、その教育目標がまちがっているからではないか。
生徒の進路進学を、今ある社会の中の職業や社会的地位の椅子取りゲームのようなものだと捉えていないだろうか。
本来の教育目標は、今ある社会を前提に、自分をどこに当てはめるかという強迫的なものであってはならない、「世界を変えられる」人間を育てることだと、私も思う。
それは自分が変われる、成長できるということでもある。
自分が成長せずに、周りを、社会を変えることなどできないのだから。
西郷氏は、昨年の3月で校長を退任した。
「自分たちで社会は変えられる」、「世界を変えなさい」と教えてきたから、何も心配ないという。