十二月学習会のご案内

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。
年に数回開催し、親子関係や、子どもを取り巻く様々な問題に関して話し合い、学び合う会です。

 

来月は、石牟礼道子著『新装版 苦海浄土 わが水俣病』の読書会です。

四大公害病の一つ、水俣病に苦しむ人々の魂の声を、詩のように綴った文学です。
今回は、直接に家庭や子育てがテーマではありませんが、素晴らしい作品であり、また私たちの時代や生き方を問うものです。

私の親の世代が高度経済成長に邁進する中、一方で恐ろしい公害病が長年放置されました。
しかし、この作品はたんにその問題を告発するルポルタージュではありません。
病のためにしゃべれない患者や、病ゆえに地域で孤立した患者家族の思いを、石牟礼が代わって豊かに語ります。

石牟礼は、彼女が暮らす地域で起こったこの問題を綴ることをライフワークとしました。
また、患者を支えるために運動しました。
一人の女性の生き方としても惹かれます。

詳細は、下記※をご覧ください。

 

学習会では、一章から四章までを読みます。
一・二章の読みづらい箇所は読み飛ばし、本書の山である三・四章をぜひお読みください。
当日背景をお話しします。

  1. 日時:12月15日(土曜)14:00~16:00
  2. 場所:鶏鳴学園
  3. 参加費:1,000円(鶏鳴学園生徒の保護者の方は無料です)
  4. テキスト:石牟礼道子著『新装版 苦海浄土 わが水俣病』(講談社文庫 2004年~)
    ※ ページ数が揃うように、現在一般の書店で販売されている上記をお買い求めください。

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局

 

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※ 詳細

  • 水俣病事件

水俣病は、1950年代から熊本県水俣市などで多発した公害病です。
プラスチックの原料を製造する化学メーカー、チッソの工場排水に含まれていた有機水銀に魚介が汚染され、それを食べた人間が中枢神経を侵されました。

また、胎児まで罹患しました。
当時の世界の医学の常識に反して、毒素が母親の胎盤を通過したのです。
何年経っても首もすわらない子どもや、亡くなる子どももありました。

ところが、工場排水はその後も十余年流され続け、被害が拡大したのです。

 

  • 『苦海浄土』

小さな漁村に多数の患者や死者が出ても、その対応は遅れに遅れ、水俣病問題は石牟礼道子が『苦海浄土』を書いたことによって、ようやく全国に知られました。

しかし、本書は、たんに加害企業のチッソを糾弾するものではありません。
患者や家族がどんな思いで生きてきたのか、その悲しみだけでなく、生きる尊厳や喜びも描きました。
彼らの思いがその抑圧から解き放たれるように、詩のように語られます。
チッソが当時の人々にとって高度経済成長を象徴する希望であった、その思いまでもが生き生きと表現されているのです。

なお、今学期、本書を鶏鳴学園、高1クラスのテキストとしました。
戦後の日本文学の最高傑作と言われる本書は、表現が優れているだけではなく、近代とは何か、人間とは何かを深いレベルで問うものだからです。
また、国策企業であったチッソによる水俣病問題は、福島の原発事故問題と構造的に非常に似かよっています。

 

  • 石牟礼道子

『苦海浄土』の著者、石牟礼道子は、チッソの企業城下町であった水俣で、長年捨て置かれた患者や家族に当初から寄り添い、憑りつかれたように筆を執りました。

戦中戦後から様々な疑問を抱いていた彼女は、水俣病患者と出会ったとき、自らの使命を自覚したのでしょう。
患者さんたちに「つかまっていったとしか言いようがない」と語っています。

殊に女性がそういった仕事をすることに、幾多の軋轢がありながら、やめようとは思わなかったそうです。
女性としての一生活者の視点が、彼女の仕事を貫いていると感じます。

<石牟礼道子 略歴>

1927年(昭2)生誕
1940 (昭15)13歳 小学校卒業後、実務学校(現・水俣高校)入学
1943 (昭18)16歳 代用教員錬成所に入学し、二学期から小学校に勤務
1947 (昭22)20歳 退職。結婚。翌年、長男誕生
1954 (昭29)27歳 詩人、谷川雁と出会う。漁村に水俣病が多発し始める
1960 (昭35)33歳 雑誌『サークル村』に『奇病』(「ゆき女きき書」初稿)掲載
1968 (昭43)41歳 「水俣病対策市民会議」結成に参画
1969 (昭44)42歳『苦海浄土』を出版。熊本地裁に提訴した患者などと共に行動し始める
1973 (昭48)46歳『苦海浄土・第三部』まで書き終える。その後も著作や運動を続ける
2000 (平12)73歳 パーキンソン病発症
2018 (平30)90歳 死去

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思春期学習会2報告 小説『エイジ』

重松 清 著 『エイジ』(新潮文庫 2004年)
2017年12月3日(日曜)

 

昨年10月の学習会に続いて、12月も「思春期」をテーマとしました。

10月に参加者の一人から、中学生の娘に以前のように明るく活発であってほしいという思いを聞いて、今回は、思春期に葛藤することこそ成長の証だと思えるようなテキストをと考え、小説、『エイジ』を選びました。
主人公の中学生、エイジのように、周りと対立し、また自分自身と葛藤するのが思春期であり、その対立や葛藤こそが大切な成長の芽だと思います。

以下、私の感想と、参加者の方の感想を掲載します。

 

思春期の対立と葛藤が成長の芽

この学習会をスタートして三年目に入り、今回初めて小説をテキストにした。
「思春期」を外側から解説している本ではなく、思春期の子どもの側から何がどんなふうに見えるのかを描いた『エイジ』を選んだ。
当時30代の小説家、重松清が中学生たちの気持ちを代弁しているのだが、リアルに描かれている。

エイジの同級生が「通り魔事件」を起こしたことによって、エイジたちの目に大人や世間の矛盾や悪がくっきりと見える。
事件をなかったことにしたいかのような教師たち、騒ぎ立てるマスコミなどに対してエイジは疑問だらけの中で、彼自身の矛盾や悪にも目覚めていく。
友人が「シカト」されることに対して態度を決めかねたり、その気もないのに女子生徒と付き合い始めたり、親にキレたりと、無様な自分に直面する。
よいことなど一つもないかのようだが、これがエイジの成長の過程だ。

 

他者に疑問を持ち、対立し、また自分自身に疑問を持ち、葛藤する。
外との分裂と、自分自身の中の分裂に足を踏み入れるのが思春期だ。
それ以前の、誰とでも仲良くできて、何にでも溌剌と取り組めるというような子どもには、もう戻れない。
むしろ、他者と対立するのが現実社会であり、その現実を自分で生きていけるような大人に向けて、一歩成長したのだ。
あれは嫌だ、これがいい、こんな人になりたいというような自分の好みや興味関心がはっきりし始める。
成長したから苦しく、しかし苦しいのはさらなる成長の芽だ。
もし、その苦しんでいる思春期の子どもに対して「以前の素直なあなたのほうがよかった」と言うなら、成長するなと言っていることになる。

一旦いくらか自分が壊れることで、親から与えられてきた生活を、自分自身の人生として捉え直し、つくり直し始められるかどうか。
中高生はその転換点に立っている。
エイジのように一時期勉強が手につかなくなるというような「一時停止」があったり、あるいは後退しているように見えることさえある。

ところが、「一時停止」や、疑問や否定、対立はよくないというのが現代のトレンドである。
ぐずぐず悩むよりも「プラス思考」、「ポジティブ」が好まれる。
とにかく大学受験まではと、葛藤には向き合えずに走り続ける子どもも多く、近年大学の学生相談室は利用者の増加が止まらず、どこもパンク状態のようだ。

子どもの思春期の対立や葛藤、「一時停止」の意味を十分に認めて、その苦しい過程を経て自立していけるように、見守り、後押ししたい。
それは、私たち自身が対立や問題に向き合って生きることによってはじめて可能なのではないか。

 

◆ 参加者の感想より

中学生の母、Aさん

今回は小説がテキストということで、専業主婦をしていた母が子育てしながらよく参加していた「読書会」なるもの、自分の仕事を持ってしまい生活とでいっぱいいっぱいの私には全く縁がなく、羨ましく思っていたので、なんだか嬉しい気持ちで出席させていただきました。主人公のエイジが、娘と同じ中学2年生というのも、興味がありました。

エイジやそのクラスメイトたち、描かれるのは男子が多いですが、みな思春期真っ只中の中学2年生、それぞれの人物の揺れる心がよく表されていたと思います。

前回の学習会で学んでから、思春期というのは、自分自身の中に、またそれだけでなくあらゆる物事や人間に二面性を見つけ、悩んでしまうことではないかと考えるようになりました。そうすると不思議なことに、反抗ばかりだと思っていた娘の言動にも納得がいくような気がしてきていました。

今回もそれは、内的二分化という言葉で先生に表していただき、どの登場人物も見事にそう揺れているのがよくわかりました。

エイジを追ってゆくと、なんだかよくわからないけれど理由がある、という思春期の言動がよくわかります。大人たちはそれを、なんだかよくわからないもの、として片づけてしまいます。しかし思い出してみれば自分もそうであったように、なんだかよくわからないけれど理由はあった、のです。そこを、大人はよく理解し忘れないようにしないとならないのではないかと、この本を読んでいて感じました。

ではそのような思春期に、親はどう関わるか、という答えは書かれていません。しかしそれも、登場人物を並べて出来事を追っていくうちに、すこし見えてくる気がしました。思春期の中学生の内面を、理解しないのは学校の先生達。理解しようとするのは、中学生の世界の外にいる、マスコミの大人。それに対して、毎日生活を共にする両親というのは、内面には直接関わらず、距離を保ってしかしそれぞれのスタンスを貫いています。子どもを理解しようと内面に立ち入って、揺れる中学生と一緒に揺れてしまったら、毎日の生活が立ち行かなくなってしまう。親というのは、もしかしたらこれでよいのでしょうか。

いまの思春期という問題には、そんなことを考えさせられた一冊でした。小説としては、それぞれの人物の心理がよく描かれているようで、最後まで興味深く読めました。

 

高校生の母、Bさん

重松清の作品はいくつか読んでいて、好きな作家だったが、エイジが課題図書となって一読してみて、率直に言って、エイジは何とも捉えようがなく、他の重松作品に比べてつまらなく感じた。

でも、子どもに、この作品は中井先生の「日本語トレーニング」でも取り上げられている本だと聞いて、少し関心を持った。

そして、学習会の場で田中先生の解説を聞いているうちに、「あぁ、そういう趣旨だったのか」と気付くことがあり、全く自分の感性が干からびてしまっていたことに気がつく有様だった。50半ばにして堂々のおばさん(夫の言葉で言うとbaba)になっていた私から見て、中学生の感性はなんと繊細なこと! 解説付きじゃなきゃ、わかんない! 私も遠い昔には同じようなことを感じていたのかなー、と言うのが率直な感想だった。

それはともかく、その後に「日本語トレーニング」にも興味がでて読んでみた。冒頭に出てくる「道徳教育でない論理トレーニングが、現実と戦う力になる」という箇所に、少し涙ぐんだ。私の悩みは、何も特別なものではない世間にはありふれた悩みだが、なんとなく説得力を感じたのだった。まだ全部は読めていないが、ちょっとずつでも読んでいこうと思った。

十二月の学習会のご案内

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。年に数回開催し、親子関係や、その他現代の子どもを取り巻く様々な問題に関する悩みを話し合い、ご一緒に考えています。

 

前回、10月の学習会に続いて、12月も子どもたちの「思春期」について考えます。

10月は思春期の親子関係に焦点を当てましたが、12月は、思春期の子どもたち自身にいったい何が起こっているのかをテーマとします。

 

テキストは、現代の中学生を描いた小説、重松清著『エイジ』(新潮文庫)です。
中学生ともなると何を考えているのやらわかりにくいものですが、小説ですから、彼らの家庭や学校での思いが見事に表現されています。

小説の舞台装置としての「通り魔事件」をきっかけに、子どもたちが世間に「嘘くささ」を感じ、また自分自身にも戸惑います。
「思春期」とは何かがよく描かれていると思いますが、お子様のことや、ご自身の思春期に思い当たるようなところはあるでしょうか。

また、20年近く前に書かれた本書は、すでに生活、文化的には少々古いですが、テーマの一つである「シカト(=無視)」は現代版のいじめを象徴するものだと思います。

鶏鳴学園の中学生クラスの授業でも教材にしている小説なので、学習会では子どもたちの声も紹介します。

  1. 日時:12月3日(日曜)14:00~16:00
  2. 場所:鶏鳴学園
  3. 参加費:1,000円(鶏鳴学園生徒の保護者の方は無料です)
  4. テキスト:重松 清著『エイジ』(新潮文庫)
    ※ 時間が許す範囲で、またご興味に応じてお読みください。
    文学研究ではなく、目の前の子どもへの理解を深めるために、話し合う材料の一つとしましょう。

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
みなさまのお申し込みをお待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局

思春期の親子関係 学習会報告

乾  義輝著「豊かな人間性を培う家庭教育の推進―「思春期」家庭の支援の在り方―」
2017年10月15日(日曜)

 

今回は、元県立法隆寺国際高等学校校長、乾 義輝氏の、思春期の親子関係についての論文を読みました。
子どもの思春期における、親自身の課題がテーマです。

学習会では、参加者の皆さんから、子どもの思春期やご自身の悩みが「問題のデパート」のように様々出されて、熱心に意見交換しました。
また、会の最後には、子どものことよりご自身のことを語る方が多かったのも、印象に残りました。

以下、学習会を終えての私の感想と、参加者の皆さんの感想を掲載します。

 

(1)  親の悩みと、変化

参加者から出された悩みは、たとえば、明るく活発だった子どもが、学校でのトラブル以降スマホ片手に勉強も手につかないといった悩み。
子どもとほとんど話ができない、また穏やかに話し合えないこと。
子どもの、友人や部活の顧問との関係。
大学入試を前にしての不安、大学生の息子の恋人や、将来の就職、結婚の不安等々だった。

また、親として、子離れが必要だとわかっていながら、子どもに手をかけ、心配してしまうという悩み。
ドラマ、『過保護のカホコ』で描かれた、母親の娘への過保護の様子が自分にそっくりとの反省。
また、その過保護や心配が、中学受験の「失敗」に親の責任を感じてしまったことから来ていると話した方もあった。

 

また、子どもの思春期を通して親自身の意識が変化したという経験も話していただいた。
明るく活発だった頃の娘に戻ってほしいという参加者の願いに対して、別の参加者から、彼女も以前は娘にキラキラした楽しいだけの世界にいてほしいと思っていたが、娘が二十歳過ぎてから「ママはきれいごとで育てようとしている」と言われたというエピソードが紹介された。
思春期の渦中にはその思いが言葉にもならず、人間関係のドロドロの中で「自分を守るだけで必死だった」とも。
その参加者は、娘は思春期にドクロの柄の服を着たりして、アタシに近付くんじゃないよと自分を守っていたのだろうと振り返った。
また、他の子どもについての見方も変化し、ああいう格好しているから悪い子どもだなどと決めつけるのではなく、思春期の不安を慮れるようになったとのことだった。

また、娘のミニスカートをとがめると、その理由を聞かれ、それに対して「『ご近所様』や『世間様』しか出せなかった、自分が無かった」と振り返った参加者もあった。

 

(2)  生き方の再構築

子どもの思春期には、子ども自身に課題があるだけでなく、親にも課題がある。

乾氏は、親自身の生き方や価値観、生い立ちや夫婦関係を問い直し、再構築する必要があると述べている。
また、その課題は「一人で誰の助けも借りずにやり遂げられる仕事ではない」、「同じ問題を抱える親同士の人間関係に支えられ」てこそできることであり、その中で「子どもとの関係」や「子どもへの願いや期待が組みかえられていく」と。

 

子育ては家庭内の孤独な仕事になりがちだが、本来は、子どもを社会に送り出すことを目的とする、社会的な「仕事」だ。
社会的な「仕事」は、社会的に、つまり他者と学び合い、相対化する中でこそ進めていけるものだと思う。

また、乾氏が、親自身の生き方や人間関係の再構築を「仕事」と表現しているのを読んで、それが「仕事」だと再認識した。
つまり、子どもの生活を支え、教育することだけが子育てではなく、親自身の生き方や考え方をつくり直していくことも、「仕事」だ。
子どもが思春期に自分自身をつくり直さなければならないときに、実は親にも同じ課題がある。
子育ての仕上げとしてその大事な「仕事」をすることが、子育てに重きを置いた生き方から子離れへ、子育て後の人生へと進むことになるのではないだろうか。

 

◆参加者の感想より

中学生の母、Aさん

初めて学習会に参加させていただきました。テーマは思春期と親の関わりでしたが、他の保護者の方々のお話を聞けたのがよかったです。どなたのお話も少しずつ共感できる部分があり、教えていただくこともあり、テキストを読み進めながら先生からいただいたキーワードも心に残り、思春期の我が子に対してすこし、目線が変わりました。

テキストを前にして、思春期真っ只中の我が子が思い浮かび、カッカしてしまいましたが、感じていた自分の問題はそこではなかったことを、帰ってきてから思い出しました。
学習会でも学びましたが、思春期とは、子の課題であると同時に、親の課題でもあるということ。参加者からお話が出ましたが、親自身のトラウマであったり、この先の我が子に対してあるいは社会に対しての漠然とした不安であったり、そういったものを抱えながら、子どもの思春期をどう乗り越えてゆくか。テキストの「研究結果と考察」に書いてある、親の持つべき自信と責任とは、どのような自信と責任なのか。答えのないものかもしれないし、人それぞれなのかもしれませんが、それらをもう少し話し、知りたかったと後になって思いました。

このテーマに限らずまた、学習会に参加してみたいです。

 

中学生の母、Bさん

参加者の皆様のお話を伺っていますと、皆同じように悩みながら、一生懸命子育てをされてこられたのだと感じました。それなのに、何故親が思い描くように、子どもは育ってはいかないのでしょうか?

そんな疑問も会が進んで行く中で、絡まっていた糸がほどけて行くように答えがみえてきました。

振り返ってみれば、私は、子育てに一生懸命になるあまりに、いつも自分を責め、目に見えない何かに縛られていました。

そんな私自身が、解放され癒されなければ、子どものありのままの姿を受け入れる事ができなかったのだと気づかされました。

この学習会の参加を機に、子どもとの関係を今一度、見直していきたいと思います。

 

中学生の母、Cさん

「豊かな人間性を培う家庭教育の推進ー『思春期』家庭の支援の在り方ー」とのタイトルのテキストを事前に頂き、どんな講義を頂けるのか、という気持ちで臨みました。
が、意外にも、参加者全員のスピーチから始まりました。自己紹介、悩んでいること。。。何をお話したらよいのでしょう。。。困りました。が、皆さんの心から出るお言葉を聞くことで自分の悩みが整理され、これまで関わって来た子育てに関し抱いていた漠然とした思いが、形になったような気がします。我が子も思春期を迎え成人していく大事な時です。今日の日本の企業社会が求めているような「よい子」というアイデンティティーではなく、本当に必要なアイデンティティーとは何なのかを模索しつつお勉強を続けていきたいと思いました。

また、我が子には国語が好きになってほしく、最近鶏鳴学園に入園させましたが、テキストにそったお勉強だけでなく、自分の持つ悩みについて生徒全員で分かち合うというお勉強もしているとのこと。今日、私が体験したように、我が子も自分のことが整理でき、他の生徒さんのことを知ることにより感想・意見をもち、それが言葉にできる。とてもよい経験をさせて頂けていると思いました。

 

高校生の母、Dさん

今回は思春期がテーマだった。原稿を読みながら自分自身のことを振り返り、また他の参加者のお話を聞くことで、自分のことを相対化して考えてみる良い機会となった。

子どもは成長につれて、行動範囲が広がり、いろいろな人と接するようになり、親の影響範囲から次第に出て行く。子どもが小さい時期、親や先生は子どもを、建て前の綺麗事の世界に閉じ込めておこうとしがちだが、子どもが思春期に入ると、現実と建て前の矛盾に敏感に気がつき、大人たちに反発したくなる。やがて踏み出していかなくてはならない大人の世界に不安を感じる難しい時期が思春期なのだと、自分の遠い過去を振り返った。子どもたちには現実社会を過度に悲観的に見ることのなく、希望をもって自分の進む道を見つけ出して欲しいと思う。

また、「母親業はもう失業」という言葉も印象に残った。親と子の関係は終わることはないが、子どもを庇護する役割としての母親業は確かにもう終わりの時期で、子どもとの新しい関係、おそらくは、大人同士の対等の関係を気づいていかなければならない時期に来ているのだということに気がついた。

 

高校生の母、Eさん

「思春期は親子関係の作り直しをする時期」という田中先生のお話が一番印象深かったです。私達親も成長する事が必要だと思いました。

また、育児の先輩ママの話を伺って、悩みはその渦中にいると先がみえなく不安になるけど、解決策がわからないなりにも向き合い続けることが大切だと私なりに感じました。

子供の事を真剣に考え悩みもがいている同士とシェアできて、孤独から少し解放され、明日も頑張ろう!と思えました。

 

高校生の母、Fさん

今日は初参加させて頂きました。みなさん悩みや問題の大小はありますが やはり子育てや自分育てに向き合っている方々や 田中先生の温かい雰囲気にいい時間を持てたと思っています。

ともあれ やはり今の社会で生きて行く私達。今を受け入れて変わっていく勇気 変えてはいけない勇気をもらえました。

 

大学生の母、Gさん

今回のテキストに、『過酷な競走社会に脅され、見捨てられる不安に駆り立てられて生きる親が、わが子を脅して「よい子」競走に駆り立てる』、また、『自分の生き方や価値観をもう一度問い直しそれを再構築していくことを迫られる時期でもある。この時期を思春期に対して思秋期と呼ばれている』とあった。どちらもまさに私のことである。子供たちは既に高校を卒業しているので、一応子育ては卒業したが、現役の時は、「よい子」を目指した子育てであった。私にとっての「よい子」とは、どのような子供であったのであろうか。また、思秋期をどのように生きていけば良いのであろうか。

私の場合、「よい子」とは一般的によく言われるような、親のいうことを聞く子供のことではない。その考え方は、自身の幼少期の経験からきている。私の母は厳しい躾をする人で、口答えや言い訳はもちろんのこと、説明をすることさえ許されなかった。母の言うことが絶対であり、自分の意思に関係なく親の言うことを聞く、私自身が「よい子」であったのである。自分が子供を育てる時には、まずは子供の意見を聞いてから物事を判断しようと決め、そして、子供にも他人の意見を聞くように伝えた。それが相手への優しさであると信じていたからである。相手の意見を聞き、誰にでも優しく接していれば、いじめなどの過酷な問題にも立ち向かえる強さが身につくと真剣に思っていたのだから、我ながら単純過ぎた。思っていた以上に幼少期の経験が大きく影響していた。私は優しさであったので子供に求めることは違ったが、結局、母と同様に「よい子」を強制してしまった。

今、思秋期になって自身の生い立ちや子育てを振り返り、やっと自分探しをしている。母の裏返しではなく、自分はどのように思うのか、ハッキリと自分の意見を持てるようになるためにこれからも学習会を続けたい。

十月の学習会のご案内

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。年に数回開催し、親子関係や、その他現代の子どもを取り巻く様々な問題に関する悩みを話し合い、ご一緒に考えています。

 

10月の学習会は「思春期」がテーマです。

ルソーの教育論に「私たちはいわば二度この世に生まれる。一度目は存在するために、二度目は生きるために」とあり、この「二度目」が思春期です。
一度目は親から生を与えられ、しかし二度目は、自分の人生を生きていくために、本人が自分で生まれ直さなければなりません。

親としても戸惑うことが多く、いわば子育ての山場です。
思春期という大切な節目について理解を深めることが、子どものために、また親自身のためにも肝要です。
様々な問題が表面化する時期ですが、親子共に成長するチャンスだと考えます。

ネットで読むことができる論文を、テキストにします。
思春期の問題がわずか6ページによくまとめられています。
自分の感情がみえなくなる「よい子」や、体調を崩す子どもの問題も取り上げています。
論文を書いた乾  義輝氏は、元公立高校教師で、県立法隆寺国際高等学校校長を務めた後、現在は奈良教育研究所に勤務されています。

  1. 日時:10月15日(日曜)14:00~16:00
  2. 場所:鶏鳴学園
  3. 参加費:1,000円(鶏鳴学園生徒の保護者の方は無料です)
  4. テキスト:乾 義輝「 豊かな人間性を培う家庭教育の推進 ―「思春期」家庭の支援の在り方― 」
    http://www.nps.ed.jp/nara-c/gakushi/kiyou/h17/data/a/a15.pdf
    ※テキストは上記アドレスで見ることができますが、参加申し込み者には念のため、テキストのPDFファイルをメールに添付してお送りします。また、印刷ができない等ご事情があれば、印刷したものを郵送します。

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局

『教育虐待・教育ネグレクト』学習会報告

古荘純一・磯崎祐介著『教育虐待・教育ネグレクト 日本の教育システムと親が抱える問題』(光文社新書 2015年)
2017年7月23日(日曜)

学習会終了直後に、参加者に今後の学習会テーマの希望を聞いたところ、「どうすれば食べていける子に育てられるか」という本音トークがあった。
教育の最終目標はそれだと。
「食べていける」=「生きていける」ということだろう。

しかし、今回のテキストは、その考え方で教育することが正しいのかという問題提起を含んでいる。

親や学校は、子どもに知識や学歴を身に付けさせれば「食べていける」と考えがちであり、 子どもにあれもこれも身に付けさせようとして「教育虐待」やそれに近いことが広く行われている。
しかし、そうして子どもを有名大学に押し込んでも、大学生活や就職活動で挫折する子どもが多いというのだ。
「教育虐待」とは、主に、子どもの成績や受験に関して暴力や暴言によって子どもを追い詰めるような行為である。

テキストの著者、古荘氏は、精神科医であり、青山学院大学で教鞭も取る。
「教育虐待」をたんに特殊な問題として捉えているのではない。
子どもが「食べていける」ようにと願う親や学校の教育の中に、広く、深く巣食うものとして問題提起している。
「恵まれた家庭で育ち、何の問題もないように見える多くの学生が、成長過程で抱えた心の問題を積み残したまま大学に入学して」、「授業に出て来られなってしまう学生もたくさんいます」と述べている。

 

本書では学校における「教育虐待」にも大事な問題提起がなされているが、この文章では家庭での「教育虐待」を中心に考えたい。

 

 (1)「教育虐待」の広がり

親に叩かれたり、「死ね」などと言われたりするという話を、近年複数の中学生から聞いた。
理由は、勉強や成績である。
小学生のとき、中学受験を前に暴力を受けたという子どももいる。
両親からの場合も少なくない。
経済的には問題のない、むしろ親の教育意識の高い家庭で、この種の虐待が少なからず起こっていることを知り、この本を手に取った。
近年増加傾向にあるようだ。

子どもの能力がどこかストレートに発揮されず、自信がない場合、また体調不良や、学校での人間関係がうまくいかない場合、その裏にこうした暴力の問題が潜んでいることがある。

 

親の「教育熱心」が、思春期の子どものプライドをズタズタにする。
「教育」が虐待の理由であるのは、報道でよく耳にする、主に貧困家庭での子どもの虐待が、しばしば「しつけ」のつもりだったと弁解されるのを思い起こさせる。

また、暴力や暴言は伴わなくとも、子どもの強い管理がいつの間にか急速に進んでいると感じる。
たとえば、親が子どもに次の試験では何点取るのかと理路整然と迫り、子どもは高得点を約束せざるを得ないというようなことが起こっている。
また、結果が悪ければ叱る。
子どもが勉強していなければ親が心配になるのは当然のことだ。
しかし、様々に悩みながら自立を目指さなければならない中高生に対して、勉強や成績だけを問題にして、まるで幼い子どもでもあるかのように叱ることが、子どもを成長させるのだろうか。
子どもを別人格として尊重せず、そのプライドや自主性、また能力をも損なうものではないだろうか。

 

また、その大人の価値観や、子どもとの関係のあり方が、彼らの学校での人間関係に反映されているのではないか。
つまり、成績による序列を偏重し、相手の人格に向き合わない「教育虐待」の構造は、同じく序列を第一とするスクールカーストやいじめの構造だ。
子どもが友人との間で「親分子分関係」に甘んじているケースも少なくない。

また、親から虐待を受けた子どもが、学校でもいじめられるケースが多いと感じている。

 

(2)  「傷付けないように」の限界

古荘氏が強調するのは、思春期は精神疾患を発症しやすいピークであるという事実である。
ストレスに弱い時期の子どもが、「教育虐待」によって発病したり、またその下地がつくられたりすることに警鐘を鳴らす。
また、その精神医学的知見が教育現場に行きわたらないことに焦りを感じている。

確かに、「教育虐待」は子どもの成長に甚大なダメージをもたらす。
発達障害の原因になる場合があると主張する学者もある。

また、問題は外からは見えにくく、暴力が伴わない場合でも、子どもは長い時間をかけて深く傷ついていく。
親が子どもに勉強を押し付けるというようなわかりやすい形で問題が見えることはむしろ少ない。
子ども自身が刷り込まれた強迫観念に追い立てられて、自ら大量の勉強や通塾をこなそうとしたり、または、それができなくて追い込まれる。
自分の感情や気力を見失ってしまう様子も見られる。
古荘氏も指摘するように、親は子どものためだと思い込み、また子どもは自分自身を責める。

そういう子どもの苦しみに大人が非常に鈍いという主張にも同感だ。

 

しかし、古荘氏の、子どもを否定するよりも肯定しようという論調には疑問を感じる。
もっと率直には、子どもを「傷付けないように」という考えが底流に感じられ、しかしそれで「教育虐待」や、子育ての悩みが解決するとは思えない。
親たちは、むしろ子どもに将来問題が起きないように、傷付くことがないようにと考えて「教育虐待」に至ったり、また子どもの心配をしているのではないか。

相手が子どもに限らず、「傷付けてはいけない」というのが、今の時代の考え方の一大トレンドだが、その裏で、家庭という密室で子どもを最大限に傷付ける「教育虐待」が起こっていることをどう考えればよいのだろうか。

むしろ、私たちが他人を傷付けることを恐れ、また自分も傷付きたくなくて、他人と深く関わることができないことが問題なのではないだろうか。
子どもの将来や教育に不安を感じても、私たちは夫婦でぶつかることも、学校の問題に踏み込むことも避けがちだ。
学校も、親に対して言うべきことを言わない。
学習会の参加者の一人は、学校は保護者への情報提供などサービスに努めるようになったが、親の顔色を見ている、と感じておられた。
傷付けないことが最優先課題なら、批判などできず、疑問さえ出せない。
学校も親も一向に考えを深めることができず、子どもの教育は改善されることがない。
親は孤立し、先の見えない時代に子どもはどう生きていくのかと不安は高まる。

そのしわ寄せが、一番立場の弱い子どもに及んでいるのではないか。
他人との関係が希薄になる一方で、親子関係の一体化は一層深刻になり、そのことも虐待の一要因だろう。
表向きは何の悩みも傷付け合うこともないかのように繕われ、「プラス思考」がもてはやされる。
しかし、その大人の守りの姿勢の裏で、子どもが傷めつけられている。

 

また、古荘氏は、最近の子どもが些細なことにも傷付き易いことを示唆しているが、それは何故なのだろうか。

これについても、「傷付けてはいけない」というトレンドが、彼らをより傷付き易くしているのではないか。
傷付け、傷付くことを恐れる子どもたちは、むしろ傷付きやすくなっている。

傷付け合ってはいけないのだから、何か問題を感じても、腹を探り合うばかりで思っていることを話し合ったりできない。
教師は率直に話し合えと言うけれども、そんなことをしたら「いじめた」と責められるという子どもの声もある。
大人の守りの姿勢を、子どもが超えることは難しい。
結局、相手への違和感を言葉で伝えるのではなく、態度で示すことにもなる。
それはより子どもを傷付け、そして誰も何も学べない。

また、「傷付いた」と感じた後も、相手と話すことも、誰かに相談することもできない。
あってはならないことが起こってしまって、そう感じたら最後、その場に立ちすくむ。
そうして「傷付いた」という結果だけが蓄積されるのではないだろうか。

 

(3) 他人と深く関わって生きる

学習会で印象に残ったのは、大学生の母親である参加者が、大学入試のネット出願を全て親が行なったことを悔いる発言をしたところ、なぜそれが問題なのかという疑問の声があがったことだ。
親自身は皆、かつて大学入試の出願は自分で行ったのに、子どもは勉強で忙しく、また出願ミスをするかもしれないという。

そういうことがまったく珍しくない中で、かんたんに挫折する子どもが増えている。
何のミスもリスクもないようにと、子どもを「勉強」に閉じ込めることが、子どもを自立から遠ざけているのではないか。
親がするべきことは、子どもの「手伝い」ではない。

また、私たちは本来、問題がよくわかるようにオープンにされて、自分の問題に気付き、そうして傷付く中でしか問題を超えていけない。
にもかかわらず、まるで傷付くことを避けられるかのような考えは、問題解決の可能性を消し去ってしまう。

 

私たち大人は、「傷付けないように」という金科玉条をひっくり返し、傷付くことを恐れることなく他人に働きかけ、大人が解決すべき問題を解決していかなければならないのではないか。
たとえば、子どもの学校に問題があれば、親は問題提起するべきだ。
部活の顧問などの体罰や暴言、いじめの問題はもちろんのこと、学校がむやみに大量の宿題を出すことや、日々の自宅学習時間を報告させるような管理にも同調していてはならないのではないか。
進学実績を上げなければ経営や運営が成り立たない学校と一体化して子どもを追い立てるのではなく、子どもの成長を真っ直ぐに追求して、学校とは一線を画すべきだ。

また、子どもにも、傷付くことを恐れることなく他人に働きかけ、その中で自分をつくっていけるような教育を保障しなければならない。
知識や学歴をたんに足し算のようにいくら身にまとわせても、そうした力はつかない。
もっと知識を、もっと成績をと子どもを追い立てるような教育ではなく、子どもが他人との関係の中でじっくりと自分自身を見つめ、人間として成長する力を引き出す教育だ。

そうして目的を持って生きる人間として自立できれば、「食べていける」。
他者や社会と深く関わって生きていくことを目指してこそ、「食べていける」のではないか。

 

◆参加者の感想より

大学生の母、Aさん

「教育虐待・教育ネグレクト」が行われるキーワードは「代理」である。筆者は、『親自身の満たされない思いを、子どもに投影してしまう-「子どもを自分の代理にしてしまう」という行為なのです』と述べている。私達親は、それぞれの教育方針を立てて子どもを育てていくのだから、自身の過去の体験や思いが子育てに反映されることは当然であり、それ自体は悪いことでは無いと思う。

私の場合、子育ての中心にはいつも母親がいた。私の母親は厳しくしつけをする人であった。私が子供だった頃は、少しでも母親に反抗的な態度や生意気な言葉遣い(こちらの意図とは関係なく母親が生意気かどうかを決める)をすると、一週間でも二週間でも口をきいてもらえなかった。これが母親流しつけであり、ことの重大さの差異はあるであろうが、現代であれば筆者のいう「教育ネグレクト」である。許して貰えるまで何回も「ごめんなさい」と言い続けた経験から、私は子どもを叱っても無視をすることはしないようにした。他にも、相手の言葉に敏感に反応してすぐに怒り出す母親が理解出来ないまま大人になった私は、誰にでも優しく接するように子どもに伝え続けた。人に優しくして傷つけてはいけないという考えは、「教育虐待・教育ネグレクト」とは一見真逆である。

しかし、今、私は子育てを振り返り反省している。何故か。相手を傷つけないようにすることが親切であると伝え続けて、我慢をしていい子にしていることが美徳であるかのように強いて来たからである。常に母親とのことが思い出されて、子どもの意思を尊重しない子育てをした私は、結局、「満たされない思いを子どもに投影して」しまっていた。相手を傷つけないようにすることばかりを考えて、人と深く関わる機会を奪っていたのである。

では、筆者の言うとおり、「教育虐待・教育ネグレクト」の問題を、「子どもの意思を尊重する」ことや「指示をする、子どもを評価するのではなく、子どもを自由にさせて」みることで、解決することに繋がるのであろうか。そうは思わない。見守っているだけでは子どもの成長は限界があると思う。

子どもに自分の思いを投影してしまったのは、私自身自分がないからである。自身の生きる目的やテーマがはっきりとしていれば、それを子どもに示すことができたであろう。そうすれば、強いることなく子どもに考えや思いを伝えることができたのではないか。

 

高校生の母、Bさん

どの家庭でも大なり小なりの問題を抱えているのではないかと思うが、家庭の枠組みを超えてそれらの問題を共有する場が少なく、親は思春期の子どもを抱えて堂々巡りをしているケースが多いのではないか。少なくとも我が家はそうだ。この学習会に参加して、自分の心配事を話せて救いになった。夫以外の人と子育てのことを話し合えるということは、それだけでストレス解消効果が大きかった。

今回のテーマは「教育虐待」だった。教育が虐待になり得る背景には、先行き不透明な世の中で生きていくため「せめて教育だけでも」と思う親の心があると思う。親の過剰な心配が問題をこじらせるような気がする。

生きていく上で教育が必要なことは勿論だが、不透明な世の中を生きていくためには「学歴」以外のものもそれ以上に重要になる。コミュニケーション能力、ストレスをやり過ごすスキル、多様な価値観を受け入れる能力、希望を持ち続ける力等々いろいろなものが考えられるが、親にとって、子どもに良い教育を受けさせ学歴を与えることが、子どもに一番してあげやすいことなのかもしれない。幼少時からの受験産業の隆盛がこのことを示している。「学歴」以外の人間力とも云うべきものは、結局、親の生き方が問われるので、我が身を振り返ると結構辛い。子どもに向かって文句を言うことは、天に向かって唾をはくことに他ならず。今回の学習会はいろいろと反省する機会となった。

 

高校生の母、Cさん

「『教育虐待・教育ネグレクト』という大変衝撃的なタイトルでしたが、習い事や部活動、そして進学等の場面において、どの家庭でも起こりうることだと感じました。
一度立ち止まって考える。
一歩離れたところから観察する。
そんな気持ちを忘れずに子供と向き合っていきたいと思います。
学習会に参加するのは初めてでしたが、終始和やかな雰囲気の中で話も大いに弾みました。
このような学びの機会に恵まれましたことに感謝いたします。

 

中学生の母、Dさん

テキストをみんなで読み込む会の参加は人生で初めてだったので脱線しがちになってしまって失礼しました。
でも、海外での教育状況、高校、大学、就職活動での様子など色々なお話を聞くことができて、とても参考になりました。

学校で塾でと日々頑張っていて「お疲れ」の我が子は せめて家庭ではゆっくりさせてあげなければと思いはするのですが、だらけている姿とみると ついついあれこれ言ってしまいます。

成績が中から下でも、一芸に秀でていなくても、まじめに働けば人並みの生活が送れるような世の中であれば、こうも親がしゃかりきになって学歴をつけさせようとはしないかもしれません。

子育ては20年もの長い期間(場合によってはそれ以上?)続き、しかも正解がわかりません。
自分たちが育ってきた時と比べて世の中の変化が速すぎて、10年先のことも予測できないのに、子どもの将来を見据えて教育をしていくことの不安。

筆者のいう、「ありのままを受け入れる」のは、親である自分こそが「あなたの子育ては間違っていないよ、大丈夫だよ」と認めてほしいのかもしれません。

七月の学習会のご案内

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。年に数回開催し、親子関係や、その他現代の子どもを取り巻く様々な問題に関する悩みを話し合い、ご一緒に考えています。

 

七月の学習会は「教育虐待」がテーマです。
この言葉をつい最近知りました。
子どもの教育に関して、家庭や学校で、意図的か否かに関わらず「虐待」が少なからず起こっているというのが、テキストの著者の問題意識です。

著者、古荘氏は、小児科医、児童精神科医であり、現在は青山学院大学の教授も務めています。
患者として接してきた若者たちの悩みに、大学でも少なからず遭遇し、衝撃を受けたと述べます。
「恵まれた家庭で育ち、何の問題もないように見える多くの学生が、成長過程で抱えた心の問題を積み残したまま、大学に入学して」、「授業に出て来られなってしまう学生もたくさんいます」と述べています。

特別な学校や家庭での問題としてではなく、この問題を切り口に私たちの社会や教育、子育てについて、考えてみましょう。

  1. 日時:2017年7月23日(日曜)14:00~16:00
  2. 場所:鶏鳴学園
  3. 参加費:1,000円(鶏鳴学園生徒の保護者の方は無料です)
  4. テキスト:古荘純一・磯崎祐介著 『教育(虐待・教育ネグレクト 日本の教育システムと親が抱える問題』(光文社新書 2015年)

※「はじめに」と第1章を中心に、第4章まで読みます。拾い読みしながら進めます。事前に読む時間のとれない方も、ぜひ奮ってご参加ください。

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局

『親にできるのは「ほんの少し」ばかりのこと』学習会報告

山田太一著『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』(PHP新書 2014年)
2017年5月14日(日曜)

 

今回は、参加者の一人が思春期の子どもとの切実な葛藤を話してくださったことによって、大いに学ぶことができた学習会でした。
子どもが親にあれこれと嘘をついていたことが発覚し、子どもと衝突したという経験です。

ちょうど今回のテキストで、山田太一は、子どもが嘘をつくことについて親はどう考えるべきかを語っています。

学ぶべきところはあるのですが、思春期の子どもの問題に太刀打ちするには不十分だということが、参加者のみなさんの意見を聞いていてよくわかりました。

以下、思春期の子どもの「嘘」の意味や、私たち自身の課題について、学習会を通して考えたことです。

 

(1)  思春期の子どもの「嘘」

今回は、参加者の一人、Aさんの、息子との衝突の経験に圧倒された学習会だった。
山田太一も、そのテキストを選んだ私も、その問題の前に非力だった。
あらかじめ選んであった箇所を学習会の中で音読していて、これではAさんの問題に手が届かないと思って、焦った。

Aさんの息子は、最近塾をさぼり、しかし行ったふりをして遅い時間に帰宅していた。
学校も休み、通院と薬代をでっち上げた。
先週その嘘の数々が明らかになり、もめにもめたとのこと。
本人は、母親のAさんも彼に嘘を話したことがあるとか、Aさんのプライドのために自分の成績を上げようとしているなどと批判したらしい。
Aさんはそれも一理あると、悩んでおられた。

 

今回のテキストの著者、山田太一は、子どもは「親の目の届かない暗闇をなくしてしまったら育たなくなる」と述べる。
子どもの「内面の汚れをないかのごとく思ったりしてはいけない」、「子供が汚れを持ったときに、それにとても驚いてしまうとか、厳しく排除してしまうということは、人間を知らない愚かで傲慢な所行」であり、親の側に「少し正直に自分を見る目があれば、子供に公明正大、清潔などを求めなくなる」とも。

つまり、大人が自らの悪は直視せずに、子どもの悪を責め立てては、子どもは成長しないというのだ。
そのとおりだと思う。

しかし、Aさんの子どもの嘘については、個人の内面の悪という道徳的な捉え方では、問題に迫れない。
思春期の子どもの場合、子どもがこの先どう生きていくのか、自分で生きていけるのかという、実存的、また社会的な不安が、本人にも親にもあるからだ。

そういう子どもの嘘を、どう考えればよいのだろうか。

 

(2)  分裂を経て、成長する

Aさんの息子は成長したのだ。
学習会を終えてから、そう整理できた。

勉強しなければならないとは思っているから、この英語塾はどうかと説明会を見せられると、行くと言ったのだろうが、一回行ったきりだった。
Aさんにしてみれば、彼が自分で通塾を決めたのに、なおさら納得できないとのことだった。

しかし、だから彼は嘘をつくほかなかったのではないか。
自分がその塾に行くと言ったのだけれど、それがどこまで自分の意思なのか、思春期以前の親子の意思の区別は曖昧だ。
人間の子どもは、親にたくさんのことを決めてもらい、手助けしてもらって人間に育つ以外に、育ちようがない。

ところが、そういう自分を含めた現状に、何かがおかしいと疑問を感じ始めるのが思春期である。
今回彼は、たんに勉強をさぼるために嘘をついたのではなく、混沌としながらも親の意思と自分の意思とを区別したのではないか。
もはや何とか親離れしなければ生きていけないという直観があって、もがいていて、だから嘘をついたのではないか。
自分で生まれ直さなければならないときに、親に嘘をつくかどうかが問題になるような自分自身に、無意識にも一石を投じたのではないか。

 

思春期に子どもは他者を強く意識し、自分を意識し、その対立がはっきりする。
そして、自分は他者にどう見られるのか、認められるのかと、自分を見る自分が現れてくる。
つまり、他者との間にも、また自分自身の中にも、自己確認の要求をめぐる葛藤が様々な形で始まる。
嘘や、いじめの問題が思春期にはっきりしてくるのは、子どもの成長の必然だ。

そのとき子どもは行き詰まり、立ちすくみ、いや後退しているようにさえ見えることがある。
子ども自身にも自分に何が起こっているのかわからず、親子でほとんど話し合えないことも多い。
子どもは、親を騙すことも、自分自身を騙し、誤魔化すこともできる。

しかし、その分裂だらけの混沌の中に、子ども自身が自分の人生を自分のものとして統一していく可能性もある。
親に与えてもらってきた生活や人生を、誰のせいでもない自分の人生として、分けて捉え直す可能性だ。
そのために、今回Aさんの息子は、親に何を与えてもらい、自分はどうしたいのかを分けてみたのではないか。
そうして親に嘘をついたり、反発したりする中に、じゃあ自分としては何を求めてどう生きるのかという問いが潜んでいる。
嘘をつけるような分裂の能力を持ったからこそ、自分の人生を自分でつくっていく可能性も手にしたのだ。

 

(3)  未来の目標を示せない、私たちの課題

しかし、もう一つ、時代の先が見えないという大きな問題がある。
子どもたちはこの先どんな社会で生きていき、どうすればそこでしっかりと生きていけるのだろうか。
私たち大人がその目標や夢を示せないでいる。
その目標が見えないことには、子どもの分裂を成長として認めて見守るのも難しい。

 

私の親の世代は、敗戦後の国を建て直し、生活を豊かにするという明確な目標を持って生きた。
また、自身の生活をよくすることが、そのまま社会全体を豊かにすることでもあり、個人と社会が一体の高度経済成長時代だった。

一方、私の世代以降には、そういうわかりやすく、社会全体で共有できる価値観はない。
成長は頭打ちし、私たちはその次の目標や夢をつくれないまま、労働環境は厳しくなるばかりだ。

下り坂の時代でも何とか子どもに生き残ってほしいと思う私たちは、とりあえず「いい大学」や「いい会社」、「資格」を打ち出す。
私自身を振り返って、上り坂の時代に自信を持って生きていた両親の延長線上を生きてきた。
それで社会が完全に壊れるということはなかったからか、家庭でも学校でも、その当時の価値が今も圧倒的に優勢だ。

 

しかし、子どもがこのあとの50年、100年を、その価値観で幸せに生きていけるという確信が、私たちにある訳でもない。

子どもたちも、それで本当に何とかなるのか、今の学校もうまくいっていないよと、様々な問題という形で、私たちのとりあえずの答えに疑問を投げかけている。
勉強も部活も、その上習い事に英検、漢検等々と、とにかくたくさん頑張れという根性論が以前以上に幅を利かせ、しかし先は見えない。
下り坂で何とか生き残れという、未来の目標を語らないメッセージには、子どもは希望を持てない。

子どもたちの問題提起を真っ直ぐに受け止め、また私たち自身の悩みを共有して、新たなものの見方や親子関係のあり方、社会の展望をつくっていきたい。
それが、子どもに強く生きていってほしいと願う私たちにできることなのではないだろうか。

下り坂社会は問題だらけだが、上り坂社会よりも前に進んだ面もある。
たとえば、男は仕事、女は家庭という当時の男女完全分業制に代わる家庭のあり方を、私たちは探っている。
だからこそ今家庭は混乱の最中だが、子どもたちと同じく、前に進んだから分裂していて、分裂を経て前へ進もうとしている。

五月の学習会のご案内

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。年に数回開催し、親子関係や、その他現代の子どもを取り巻く様々な問題に関する悩みを話し合い、ご一緒に考えています。

 

5月は、山田太一の親子論を読みます。
山田氏はテレビドラマの脚本家であり、『男たちの旅路』や、『岸辺のアルバム』、『ふぞろいの林檎たち』など家族を描いたドラマが70~80年代にヒットしました。
今回のテキストは、彼自身の子育てや、子ども時代の経験、親への思いが率直につづられているところが魅力です。

彼は、その経験をもとに、子どもは親の教育次第だなどと考えるのは傲慢であり、親ができることは「ほんの少しばかり」だと述べています。

確かに、子育てのプレッシャーが大きく、子どもも疲れ気味である現状は問題です。

しかし、親に子育てについての一定の責任があるのも事実です。
親ができる「ほんの少しばかり」のこととは何なのでしょうか。
話し合ってみませんか。

 

  1. 日時:2017年5月14日(日曜)14:00~16:00
  2. 場所:鶏鳴学園
  3. 参加費:1,000円
  4. テキスト:山田太一著『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』(PHP新書 2014年)

※第一章のp50までを中心に読みます。拾い読みしながら話し合う気軽な会です。事前に読む時間のとれない方も、ぜひ奮ってご参加ください。

 

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

 

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局

『スマホチルドレン対応マニュアル』学習会報告

テキスト:竹内和雄著『スマホチルドレン対応マニュアル』(中公新書ラクレ2014年)
2017年3月19日(日曜)

 

3月の学習会では、昨年12月に引き続き、再びスマホ問題を取り上げました。
今回も、参加された鶏鳴学園の生徒の保護者の方から、子どものスマホの使い過ぎや、ラインでの友人関係の問題など、様々な悩みが出されました。

中高生の間はスマホは持たせないというのも一つの対策ですが、大学生になってスマホ依存に陥っても困ります。

 

今回はその具体策を考えました。

いつから子どもにスマホを持たせるのか、持たせないのか、ネット犯罪やトラブル、スマホ依存にどう備えるのか、親に何ができるのか。
その具体策です。

 

以下、一つの案として、参考になさってください。

また、参加者の感想の一部も掲載させていただきます。

 

 

子ども自身に安全対策や使い方の案を出させよう

 

子どものスマホ問題について肝心なのは、フィルタリング方法などよりも、子ども自身のトラブル対処の意識の問題です。
その主体的な意識を高められなければ、親が何をしようがスマホ依存もネット犯罪も防げません。
子どもといたずらにもめるばかりで、そのいたちごっこにへとへとになるばかりです。

しかし、子どもが意識を高めるために、参考になりそうな資料はなかなかありません。
今回のテキストも、子どもたちのリアル社会の問題をベースとしてスマホ問題を論じ、また最近のネット犯罪などをわかりやすくまとめている点ではよいのです。
しかし、対策案は「大人の常識を普段から教えよう」、「子どもの言い分をしっかり聞いてあげよう」といった、思春期や自立といった視点の無いものです。

親子で交わす「使用ルール」も、他の本やネット情報と同様、利用時間や場所、禁止事項を並べたお決まりのパターンです。
たとえば、「夜9時~朝6時は電源を切る」、「夜9時に居間の充電器に置く」、「自分の個室では使わない」等々。

思春期、反抗期の子どもに対して、こういうルールが有効に機能するはずがありません。

親や教師が何を言おうが、本人自身の意志がなければ本気では動けなくなるのが思春期です。
この大事な成長に後戻りはないのですから、子どもが自分で本気で考え、自分の人生を生きようとする、自立に向けて、試行錯誤を重ねるしかありません。
そんなことがすぐには実現しないということ、しかし目標は見失わないという二つの覚悟が必要でしょう。

 

そこで、スマホ問題の結論として、子ども自身にスマホ問題を調査、学習させ、安全対策、使い方、契約形態などの案を出させた上で、親子で話し合うのがよいと考えました。
使用時間についても、子どもの案に対して親は意見を述べ、しかし強制や管理はできません。
その前提の上で買い与えるのかどうかを判断し、見守る覚悟が必要です。

問題は、そもそも親子での話し合い自体がムズカシイことでしょう。

しかし、失敗しながらも、お互いに冷静に話し合おうとしていくことが、子どもの自立に向けた歩みになると思います。
料金のことなど親が最終決定権を持つ事項はきちんと示した上で、対等に話し合っていく試みです。

スマホ問題も、親が子どもを管理する形から、子どもの自立へとシフトしていくための、親子双方の試練であり、またチャンスなのではないでしょうか。

 

以下、具体策の考え方、進め方をまとめてみました。
一つのたたき台として、参考にしてください。


目標
  1. 子どもの安全(ネット犯罪、トラブル、依存対策など)。
  2. この問題を通して、子どもの自立を図ること。
 対策

(1)親自身がこの問題について学習し、方針と覚悟を固める。

①いつから使わせ、どう使わせたいのか。

  • 子どもがスマホ問題について自分で調査、学習できるようになってから、携帯またはスマホを使わせることを検討する。おそらく中学生以上。小学生はキッズ携帯。
  • 子ども自身の、安全対策、使い方、契約形態、料金等についての案をもとに、親子で話し合い、合意すれば持たせる。

②安全対策と教育、そしてトラブル対処をどう行うのか。

  • 子どもがスマホやアプリの仕組み、ネット犯罪や依存の現状についてのテキストを選んで学び、対策案を出す。親も学習した上で話し合い、必要なら補足する。
  • フィルタリングは犯罪対策として年齢に応じてかける。Wi-Fi対応やアプリ制限も。(携帯ゲーム機、iPad、音楽プレーヤー等も対策が必要)
  • トラブルが起こることを想定し、その際は親に相談するように伝え、かつ学校や児童相談所、警察、子どもの人権110番、その他の相談機関への連絡方法も伝える。

 

(2)子どもと話し合う

①親として、子どもが中高生時代をどう生きてほしいのか、何を望むのか伝える。(できれば、子どもが調査、学習、立案する前提として、前もって伝える)

  • 「自分づくり」をしっかりやってほしい。どのように生きていきたいのか、大学で何を勉強したいのか、夢をつくっていくことを望む。

 

②子ども自身の、安全対策、使い方、契約形態案をもとに話し合う。

  • 子どもの安全対策とその意識を確認し、また高める。
  • 以下についても話し合うが、最終決定権は親が持つことをきちんと示す。
    *親の名義で契約し、それを子どもに貸与する形にする。
    *契約形態と月々の料金の上限を定め、超過分は子どもが小遣いから支払う。課金の制限、または禁止。
    *個人情報入力やアプリのダウンロードの制限、フィルタリング。
  • 使用時間や場所についても意見交換するが、中高生に対してそれを逐一管理することはできないし、するべきではない。
  • 子どもの意識や親子関係の状態をもとに使わせるかどうかを判断し、使わせた後は、基本的にはゆったりと見守る覚悟を持つ。

③使わせる場合は(1)②はすべて実行し、使い始めてからも必要に応じて話し合い、またトラブルに対処する。


 

◆参加者の感想より

大学生の母、Aさん

それぞれの家族にそれぞれのスマホに対するルールがあるであろう。
ガラ携から当たり前のようにスマホに買い換えた我が家の場合、大したルールも無くこれまでの暗黙の了解が通用すると思っていた。
しかし、子供たちはもはや、スマホは電話の機能以外の使い方しかしていない。
時間があればLINEやSNSをして、インターネットとにらめっこをしている時に何を言っても聞く耳を持たない。
違う時間の過ごし方をしてくれないものかとやきもきするが、子供たち自身がどう過ごしたいのか、自分たちは何を求めているのかを考えて具体的に自立に向けて実行していくしかない。

親が時間を管理しようとする前に、もっと話し合っておくべきであった。
例えば、料金やトラブル対策等についてである。何も話し合っていない、何も調べていない、何も考えていない。
反省すべき点は、スマホとの付き合い方ではなく、私たち親子の関係、また、私の生き方そのものであった。

 

高校生の母、Bさん

スマホにまつわる悩みついては、子供の成長とともに少しずつその内容は変化しながらも、常に漠然と頭の中に存在してきました。
今回、テキストを読み、いろいろな意見や体験などを聞き、自分の考えを言葉にすることによって、この問題への向き合い方が少し整理されたような気がします。

皆さんとの話し合いを通して改めて感じたことは、子供たちの抱える真の問題は別のところにあり、それらがスマホを通して浮かび上がっているに過ぎないということです。
依存を防ぐために時間や場所を決め、フィルタリングをしたとしても、それらは対処療法に過ぎず、結局のところ、それらの問題に向き合うこと無しに本当の解決への道筋は見えないのだと思いました。

大学が研究から社会人教育の場へと変化する中、その余波が高校、中学、小学校にまでも及び、親が感じる不安やプレッシャーが子供の時間や自信を奪っているのかもしれません。
その逃げ場として、深夜のゲームやLINEが機能している側面もあるのではないでしょうか。
スマホに溺れず、ツールとして自在に使いこなせる強さを育てるためにどうすれば良いのか、これからも試行錯誤を重ねて行きたいと思います。

 

高校生の母、Cさん

高校生男子の親として、学校の保護者会でもママ友との会話でも頻繁に話題に上がるスマホ。
私も頭を痛めていたのだが、この問題を取り上げた本があることも知らなかったし、当然ここまで考察されたものを読んだことはなかった。
私はスマホやネットを、これからの時代なしでは生きていかれないものである一方で、ついつい依存してしまう危険があり、勉強時間が確保できなくなるリスクがあるもの、と思っていた。
正直、自分自身の学生時代にはスマホはおろかネットすらなかったので、この問題をどのように考えたら良いのかという視座もなかった。

今回学習会で、この本を読んで、学習会で参加者の皆さんとお話をして気がついたことは次の二つだった。

  1. 今の子どもたちは、リアルで知っている人たちとの対面でのコミュニケーション、電話でのコミュニケーション、文章でのコミュニケーション、という段階を十分に踏むことなく、未成熟な年齢で世界中と繋がっているとも言えるネット上のSNSの世界にデビューしてしまう。
  2. 思春期は、友達から自分がどう見られているか、友達との関係性に過敏になる時期であるので、LINEなど友達とのSNSは子どもの生活に大人が想像できないほど大きな影響力を持つ。

いずれもとても難しい問題だが、このような状況に子どもたちが置かれているという点についての理解がなければ、子どもと話し合うことは難しいだろう。
そして、今回の学習会で改めて気づいたことは子育ての最終目標は「子どもの自立」だということ。
スマホ問題も、勉強時間の確保という視点だけではなく、最終的には、スマホやネットとの付き合い方を自分で考えて自律できる大人になるという視点から考えることが大切だ。
スマホとの付き合い方は私自身難しい。
でも、学習会に参加して2時間以上たっぷりと皆さんとお話できて、新しい視座を発見できて少し気が楽になった。