学習会休止のご報告

「家庭・子育て・自立」学習会主宰者の田中由美子です。

この度、この学習会をいったん休止します。
特にこれまで学習会に参加していただいたみなさまに、厚くお礼を申し上げます。

下記に、その休止の理由と、今後の展望をお伝えします。
また、学習会のこれまでを、このブログに沿ってふり返ります。

 

目次
(1) 学習会休止の理由と、今後
(2) 開催した学習会一覧
(3) 学習会のこれまでの歩み

 

(1) 学習会休止の理由と、今後

この学習会は、これまで主に、思春期や子育てをテーマに開催してきました。

それは、私自身が、かつて息子や娘の思春期に親としていったい何をすべきなのか戸惑ったことが出発点でした。

また、その後、作文や話し合いを中心とする国語塾、鶏鳴学園で中学生を指導する中で、彼らがなんとさまざまな問題に直面していることか ― 思春期や、また学校の問題についても、私にはなはだお粗末な理解しかなったことに気づきました。

そして当然親たちにも、そうした思春期の子を前にさまざまな悩みがありました。
しかし、私自身がそうだったように、思春期の子育てや家庭の悩みを真っすぐに話したり、考えたりできるような場はそうそうありません。
それなら、子どもだけではなく親も、その思いを語り合い、学び合う場が必要だと考え、この学習会を立ち上げました。
親子それぞれが「自立」していけるように、参加者それぞれの問題について互いを参考に、またテキストを参考に考えていける場になればと思いました。

それから十年が経ち、今私は、子育てや思春期というテーマに深く迫るためにも、家族のその初めから終わりまでの全体を考えたいと思うようになりました。
人が家族の中に生まれ、そこから巣立って社会の中で生きて、そして老後を迎える、その家族の全体です。

この間、息子や娘は独立してそれぞれの家庭を持ち、私たち家族は新たな段階に入りました。
また、両親が老いる中、実家の問題を考え続けたこの十年でした。
父が亡くなった後、その問題の意味はより明らかになり、また、母は今介護施設で暮らしています。
そのことによって、私自身の老後や死も、今はリアルに射程に入りました。

また、そうした家族の全体を考えるために、人間の歴史の中で、家族はどう始まり、どんなあり方の変遷をたどってきたのかについても調べたいと考えています。
それは、私たちが学校で習ってきた社会一般の歴史や経済の後ろに、またはその土台に常にあった家族と女性の歴史ではないかと思います。
そもそも家族とは何か、私たちは生きていく中でぶつかる様々な家族の問題をいったいどう考え、どう取り組めばよいのか、また女性の生き方が、私のテーマです。

どういう具体的な問いを立て、その研究をどう進めていくのか、ここ数年でその段取りを立てます。
そして、その後どこかの時点で、これまで以上に充実した、また社会に開かれた学習会として再出発することを目指したいと考えています。

 

(2) 開催した学習会一覧

下記の表は、2015年から2024年までに開催した、計18回の学習会一覧です。
2018年までは鶏鳴学園の教室での開催、2020年からはオンライン開催でした。
主な参加者は、鶏鳴学園の生徒や卒塾生の保護者の方。
他に、卒塾生や、鶏鳴学園の大学生・社会人ゼミ生です。
また、塾やゼミの外の、一般の方にも参加していただきました。

月日 著者            本
2015 6.21(日) 松田道雄 『新しい家庭像を求めて』(筑摩書房)
1 11.8(日) 斎藤 学 『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)
2 12.13(日) 斎藤 環 『社会的ひきこもり』(PHP新書)
3 2016 3.13(日) 松田道雄 『女と自由と愛』(岩波新書)
4 5.22(日) 上野千鶴子 『主婦論争を読む Ⅰ』(勁草書房)
5 7.17(日) 上野千鶴子 『主婦論争を読む Ⅱ』(勁草書房)
6 10.30(日) 土井隆義 『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波ブックレット)
7 12.11(日) 尾木直樹 『「ケータイ時代」を生きるきみへ』(岩波ジュニア新書)
8 2017 3.19(日) 竹内和雄 『スマホチルドレン対応マニュアル』(中公新書ラクレ)
9 5.14(日) 山田太一 『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』(PHP新書)
10 7.23(日) 古荘純一

磯崎祐介
『教育虐待・教育ネグレクト 日本の教育システムと親が抱える問題』(光文社新書)
11 10.15(日)

 

乾 義輝 「豊かな人間性を培う家庭教育の推進―「思春期」家庭の支援の在り方―」
12 12.3(日) 重松清 『エイジ』(新潮文庫)
13 2018 12.15(日) 石牟礼道子 『新装版 苦海浄土 わが水俣病』(講談社文庫)
14 2020 8.30(日) 河合隼雄 『子どもと学校』(岩波新書)
15 12.12(土) 西郷孝彦 『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』(小学館)
16 2021 3.7(日) 青木省三 『ぼくらの中の発達障害』(ちくまプリマー新書)
17 8.1(日) アガサ・クリスティー 『春にして君を離れ』(早川書房)
18 2024 8.4(日) 田中由美子 『思春期の子どもと親、それぞれの自立』(社会評論社)

※ 冒頭※の学習会は、鶏鳴学園の大学生・社会人ゼミにより、当学習会設立準備のために開催された学習会です。

 

(3) 学習会のこれまでの歩み

この十年の学習会と私自身の歩みを、ブログも読みながら詳しくふり返ります。

① 始まり

先にも書きましたが、私が自分の人生に特に強い疑問を持ったのは、息子や娘の思春期のときでした。
後に言葉になったことですが、彼らがどう大人になろうかという葛藤の中にあったとき、母親の私が、何のためにどう生きるのか、日々のさまざまな問題にどう対処すればよいのか、わからないまま生きているという現実にぶつかったのだと思います。
彼らが何のために勉強し、何のために大学に行くのかについても、私に胸を張って言えることはありませんでした。

その後50歳から国語塾、鶏鳴学園で仕事をするようになると、思春期真っただ中の中学生たちの、学校での人間関係の悩みや、勉強する気がしないこと、また親子関係等々の悩みを知ります。
また、親にとっては、子の思春期の嵐に巻き込まれたり、またその不安に子を巻き込んだりとたいへんな場合が少なくありません。

いったいどうすればいいのか ― 子どもの思春期には、子どもは親からの自立を目指して自分自身の考えや目的をつくり始め、そして、親もまた、あらためて自分自身の人生の目的を生き、子離れし、自立していく、これに尽きるのではないかと思います。
しかし、それはかんたんではありません。
私は、鶏鳴学園の大学生・社会人ゼミと、鶏鳴学園での仕事という学び続ける場がある中で、なんとか少しずつ自分の人生のやり直しをしてきました。
また、その一環としても、特に家庭の問題に焦点を当て、話し合い学び合えるようにと組織したのが、この学習会です。

ブログで学習会の設立を宣言する「『家庭・子育て・自立』学習会について」や、その意図を詳細する「学習会の趣旨」は、今読んでも意気込みはあります。
私自身が家庭の問題につまずいたので、その実感と問題意識のためでしょう。

ただし、当時50代では、子育て後の老後についてはまだ実感は伴っていませんでした。
子育てする中で私たちはある意味自分の人生を「復習」した後、今度は、親の介護や看取りに際して自分の今後を「予習」するということを、今の私は実感しています。
つまり、自分がこの後どう老いて、どう死ぬのか、そこに向けてどう生きるのかということが、今は日々の生活の土台にあります。

他方で、「必然的に依存し合って生活する中で、同時に個々人の自立が求められ、家庭が子を自立させる使命を担っている」という家庭の矛盾や本質については、まだそれ以上のことを今の私は言えません。

 

② 2015-2017年

スタートから2017年までの二年余りは、隔月ほどのハイペースで12回開催しました。

最初の二回は、大学生・社会人ゼミの読書会で読んでおもしろかった本をテキストにしました。
初回の学習会で何を目標に生きるのかというところにまで話が進んだのは、斎藤 学のテキストの力が大きかったと思います。
共依存的な生き方の問題は私たちの多くが抱えており、参加者の多くが自らの親との関係について語りました。
ブログもここまで突っ込んだのは最初で最後でした。
次の斎藤 環も、私たち大人が、他人と深く関わらず、ひきこもる生き方をふり返らざるを得ないテキストです。
よい学習会には、まずこうした強く深いテキストが必要でした。

次は、女性の生き方や結婚に関する三冊を読みました。
松田道雄は、この学習会の設立に先立って開催された大学生・社会人ゼミの読書会でもテキストとしました。
彼は女性や家庭の問題の本質によく迫り、その核心は自立であり、問題があれば闘うという変革精神です。
今回ブログを読み返してみて、家族を考えていくためにすぐにももう一度読みたいと思ったのは、彼の著作群でした。
そして、次に取り上げたのが、上野千鶴子がまとめた戦後の主婦論争です。
このブログがやけに熱いのは、私が塾で指導を始めて五年目になり、中学生たちが学校や家庭で抱える問題が、彼らの作文にあふれ出すようになっていたからでしょう。
それを受けて、親はどうするべきかを熱弁しており、今読むと少々恥ずかしいくらいです。
私は長年主婦という社会的に曖昧な立ち位置にもやもやした思いを抱えていましたが、否、主婦かどうかではなく、親として、一人の人間としてやるべきことがあったのだという気付きが当時ありました。

2016年後半からの第6-12回は、塾の保護者がまず求めているだろう子育てや思春期をテーマにした学習会を計画していきました。
塾の保護者会で生徒の親たちの生の声を聞くことが、私の背中を押しました。
生徒たちにとって切実でも、親には実感のない、今の学校での人間関係の問題を取り上げたり、また、子どものスマホ使用についての親の不安にも応えたいと思いました。
親子の一体化がますます強くなっているように思われる今の家庭での、暴力には至らないものを含めての教育虐待も取り上げました。
子どもの思春期にあっての親の側の課題は何かという、直球勝負のテーマにも挑みました。
また、思春期の子どもを外から論じるのではなく、彼らの側から彼ら自身やそこから見える世界を描いた小説も、テキストにしてみました。

この子育て、思春期シリーズは、私の当初の問題意識からしても、また塾で中学生の成長を後押しする立場としても、ぜひ実現したい学習会でした。
また、授業で生徒たちの声を聞くだけではなく、親たちとも率直に話し合えたことは私にとって大きな意味がありました。
当時のブログを読むと、参加者どうしや、私と参加者の間によく対話があったことに気づきます。
参加者の話から、私がテキストを捉え直したりもしています。
子の思春期に現れてくる問題は、子どもが大人になるとはどういうことなのかをたんに内面的にではなく、親や他者との社会関係の中で深くとらえているテキストでなければ太刀打ちできないのだということを、いざ学習会が始まってから思い知ったりもしました。

また、当時参加者も、子育ての日々の悩みを驚くほど率直に語っています。
会が終わるころには、参加者が、子どもではなく親自身のことを語るようにもなっています。
その頃のことをもう忘れてしまっていましたが、今の私にそれができるだろうかとさえ思いました。
授業でも、生徒の発言や作文にひたすら学び続けた頃でした。

 

③ 2018-2021年

2017年末には、それまでと同じレベルの学習会を続けるのではなく、親自身の子育て後や老後の生き方、女性の問題という本丸にもっと焦点を当てていきたいと考えました。
一年ものブランクの後、2018年末に開催した学習会は、『苦海浄土』をテキストとしました。
子育てや思春期とは直接関係のない社会問題を問い、また生き方を問う文学です。
子どもをどう育てたいのかは、私たちが今どういう時代に生きて、そしてどこを目指すのかによるのだから、水俣病問題が何だったのかを深く問う『苦海浄土』をこの学習会で読みたいのだと、ブログは息巻いています。
「子育ては突き詰めれば、親自身がどう生きるのかという問題以外のなにものでもありません」、石牟礼道子の生き方から学びたいのだとも。
この作品に強く心を打たれた私が、思いっきり背伸びしてでもやりたかった、打ち上げ花火のような学習会でした。

この学習会が教室での開催の最後となり、その後2020年のコロナ禍でオンライン開催になります。
おそらくそのことによって、男性の参加が増えました。

さて、ブログを読むと、『苦海浄土』の学習会の報告あたりから、参加者とのやり取りやその影響が、私の文章にあまり現れなくなっています。
鶏鳴学園で中学生たちと向き合い始めて十年になろうという当時、彼らが抱えるさまざまな問題について、私の考えをきちんとまとめて彼らに示そうとし始めた時期でした。
なんとか自分の考えをまとめなければならないという思いが、ブログにも現れているように思います。
2020年夏の河合隼雄の学習会報告でも、この大御所のテキストを少し引いては自分の考えをまとめることにかかりっきりといった文章です。

同年冬の西郷孝彦の学習会報告には、今も、そうだ、私が外に向けて動かなければと思わせられます。
世田谷区立桜丘中学の校長を十年務めた彼は、生徒を委縮させるようなルールは取っ払って、「よく生きよう」という意志が発動するような安心な学校を用意したうえで、教育とは「心を引っ掻き回すこと」、固定観念を覆し、前提を疑うことを教えることだと言います。
生徒にも教員にも「世界を変えなさい」と教え、彼自身が学校を社会に開き、すっかり変えて見せました。

2021年春には、主に知的障害を伴わない「発達障害」についてのテキストを読みました。
近年、塾や、大人のゼミでも耳にするようになった言葉です。
私たちは誰もが常に「発達」に課題を抱え、一生その課題を超えようとして生きていくのが人間です。
そのことと「発達障害」はどうちがうのか、またどうちがわないのかといった疑問があります。
それはかんたんに答えが得られるようなことではありません。
しかし、このテキストで精神科医の著者が「発達障害」の特徴として、思春期になっても大人から与えられた規範に反発しない「よい子」であり続けることを挙げた点に、特に関心を持ちました。
そうだとしたら、それは今の子どもたちに一般的な傾向であるように思われます。
子どもの自立が難しいという社会的裾野があっての「障害」なのだろうかという思いを持ちました。

2021年夏はアガサ・クリスティーでした。
48歳の主婦である主人公の、夫とも娘とも、誰ともほんとうに心通うことのない、誤魔化しの人生のぞっとするような恐ろしさを、なんとよく描いた小説でしょう。
それは家族というものの恐さでもあるでしょう。
この学習会はなかなか盛り上がりました。

 

④ 学習会の終わり

2021年のクリスティー学習会の後、私は、『思春期の子どもと親、それぞれの自立 ―50歳からの学び直し―』(社会評論社)の刊行に向けて、本格的に原稿を書き始めました。
やっと刊行にこぎつけたのは2024年の年初。
その間学習会は一度も開催できず、その夏三年ぶりに、拙著をテキストに学習会を行いました。
この十年の学習会の前半と後半をそれぞれ支えてくれた運営委員の石畑敦子さんと山元比呂子さんの二人も参加してくれました。

拙著は、2011年からの鶏鳴学園での仕事のここまでの総括であり、また、子育てや思春期を中心テーマにとしてきたこの学習会の総括でもありました。
他方で、この十年のテキスト全体をふり返ると、家族や女性というテーマが、私の意識としてはそのバックボーンとしてあります。
本気で仕事ができるだろう人生最後のこれからの十年で、どこまでそのテーマに迫ることができるのか、みなさまになんらかの報告ができるようにベストを尽くします。

2025年4月20日

著書の書評掲載のご報告

今年2月刊行の著書、『思春期の子どもと親、それぞれの自立 ―50歳からの学び直し―』の書評が、日本教育新聞(9月9日付)に掲載されました。

下記リンクからご覧ください。

 

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 「家庭・子育て・自立」学習会事務局

2024年8月学習会のご案内

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。
親子関係や、子どもたちを取り巻く様々な問題に関して話し合い、学び合う会です。

 

本年3月に刊行した拙著、『思春期の子どもと親、それぞれの自立―50歳からの学び直し―』(社会評論社)をテキストとして、下記の通りオンライン学習会を行います。

本書の内容については、先日下記のページで紹介させていただきました。
著書刊行のご報告 | 「家庭・子育て・自立」学習会 (keimei-tetugaku.com)

思春期のお子様と日々格闘しておられる方々、また、かつて思春期を通ってきたすべての大人の方々、どうぞご参加ください。

本書を一つの材料にフランクに話し合い、それぞれの日々の問題について考えることができればと思います。

  1. 日時  :8月4日(日曜)13:00~15:00
  2. 形態  :Zoomによるオンライン開催
  3. テキスト:『思春期の子どもと親、それぞれの自立―50歳からの学び直し―』(社会評論社)
  4. 参加費 :1,000円(お支払方法はお申し込み後にご案内します)

 

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

 

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 「家庭・子育て・自立」学習会事務局

著書刊行のご報告

2024年3月5日に、著書『思春期の子どもと親、それぞれの自立―50歳からの学び直し―』(社会評論社)を刊行します。https://www.amazon.co.jp/s?k=9784784517633&tag=books029-22

15年ほど前から国語専門塾、鶏鳴学園の社会人ゼミで私自身が学びながら、中学生クラスの授業を担当してきました。
それまでの人生や子育ての中で、いったい何をどう考え、どう解決すればよいのか、たびたび戸惑い、悩んできましたが、授業で出会う中学生たちも、様々な葛藤を抱えています。
そして、彼らの本音や現実に向き合う中で、彼らが抱える問題は、大人たちやこの社会の問題をそのまま映したものではないかと考えるようになりました。それは、私自身がつまずいた問題や、家庭や学校の問題です。

そういった問題の本質と対策について、かつて中学生だった子どもの親の立場からまとめたのが、このたび刊行する本書です。

刊行準備のためにしばらくこの学習会をお休みしていましたが、今夏、本書の読書会から再開します。
日程が決まり次第、ご案内します。

 

以下、本書の目次です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第一章 転機

  1. 子どもたちの思春期
  2. 50歳での転機
  3. 「社会人・大学生クラス」(中井ゼミ)での自立のやり直し
  4. 「中学生クラス」と「家庭・子育て・自立」 学習会
  5. 問題に向き合う生き方

第二章 作文を読み合って話し合う授業

  1. 率直に突っ込み合う
  2. 問題を抱える中学生たち
  3. 精一杯の作文にどう応えるか

第三章 小冊子「君たちが抱える問題の本質と、その対策」

○小冊子 「君たちが抱える問題の本質と、その対策」
○教材 「部活、サークル、クラスの行事などの問題」

第四章 中学生たちが抱える問題 学校編

  1. 「いじめ」たことを書いた作文
  2. 他人を傷つけるからよくないこと?
  3. 「自分が傷つくのも嫌」
  4. 思春期に対立は必然
  5. 「傷つけてはいけない」という行き止まり
  6. 相手への疑問や批判は直接本人に言う
  7. 最終目標は自立
  8. 問題の本質を考える練習、言いたいことを言う練習
  9. 不登校は「ズルい」?
  10. 不登校はタブー?
  11. 秘密主義
  12. 部活やクラスにルールがない
  13. 裏ではなく表で対立できる仕組みを
  14. 自立に向かうためのルール

第五章 中学生たちが抱える問題 家庭編

  1. 教育虐待
  2. 中学受験って何だったのか
  3. 「空白」を埋めるスマホ
  4. 学びたいテーマを持つという自立
  5. 「母が絶対権力」
  6. 兄弟や親の問題
  7. 子どもの権利の代行という親の役割
  8. 親子それぞれの自立
  9. 子育て後の第二の人生

第六章 経済成長と「家父長制」の次へ
―  親の、その親からの自立  ―

  1. 父との関係の節目
  2. 親子関係の意味

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

関心を持ってくださった方は、Amazonでご購入ください。
https://www.amazon.co.jp/s?k=9784784517633&tag=books029-22

 

※ 本書の下記2箇所の脱字について、お詫びして訂正します。

① 7頁4行目(冒頭)
(誤)「作文に表現したのではないと思います」(「か」の脱字)
(正)「作文に表現したのではないかと思います」
② 131頁5行目
(誤)「子どもには理解できはずがない」(「る」の脱字)
(正)「子どもには理解できるはずがない」

 

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 「家庭・子育て・自立」学習会事務局

『春にして君を離れ』学習会報告

日時  :2021年8月1日(日曜)13:00~15:00
テキスト:アガサ・クリスティー著『春にして君を離れ』(ハヤカワ文庫 2004年)

 

アガサ・クリスティー著『春にして君を離れ』をテキストに、オンライン学習会を行いました。

クリスティーと言えば推理小説ですが、この作品では殺人事件は起きません。
主に家庭での出来事や、家族の関係が描かれています。
ところが、なんとも恐いのです。
誤魔化して生きていくことの恐さでしょう。

この誤魔化しは、私には身に覚えがあります。
当時年々つらくなっていきましたが、誤魔化しはそれだけ恐ろしいことだということでしょう。
また、今でもふと気づくと自分で自分を誤魔化していることがあります。

その誤魔化しの恐さが、家族の本質をとらえているクリスティによって、また、おそらくその特別な推理小説の技法によって見事に表現されています。

学習会の参加者から、自分にも思いあたってグサグサ来たという声もありました。

他方、主人公たちが哀れだという感想や、この小説はリアルではなく、いかにも作り話だという声もありました。

さて、以下私(田中)の感想と、運営委員の山元さんの感想を掲載します。

 

 1.ジョーンの気付き

第二次世界大戦、開戦間近、イギリスの田舎町の中流家庭が舞台だ。
主人公のジョーンは48歳の主婦、夫は弁護士である。

一男二女の子どもたちの思春期以降、夫婦や子どもたちに様々な問題が現れていく。

しかし、ジョーンは、たとえば、彼女が蔑んでいる女性への、夫の熱い想いに、気づきたくない。
また、妻のある年配の男性との長女の熱愛に苦慮しながらも、たんに「汚らしい」関係だとしか解さない。
彼女にとっては、すべては偶然おかしなことが降ってわいただけである。
だから、問題はさらさらと流れ去って行き、「すばらしかったわ、わたしたちの人生は」と言う彼女の容姿は、歳不相応に若い。
夫との会話は常にかみ合わず、子どもからの辛辣な批判も、難しい年頃の彼らの問題だとしか考えない。
むしろ、自分の才覚と気遣いでよい家庭を築いてきたと自負している。
経済的に豊かな階層に暮らしていることに満足し切っているようだ。

ところが、バグダッドで暮らす末娘を見舞った帰り道、悪天候のため砂漠の駅で足止めになった数日間に、彼女は回想を繰り返すことになり、自らの人間性や生き方の薄っぺらさに徐々に気付いていく。
夫や子、その他の誰とも深く理解し合うことのない人生。
末娘に自殺未遂があったらしきことにも、ようやく思い至る。
そうした生き方のぞっとするような孤独と、その本質を、クリスティーは小説の最後の最後までをかけて見事に描き切っている。

 2.夫、ロドニーの欺瞞

ジョーンは、早く家に帰って夫に会い、自分の悔いる思いを話したいと、はやる気持ちで汽車に乗る。
生き直そうと。

ところが、いざ帰宅したジョーンは、結局すべてを無かったことにする。

そのとき、夫、ロドニーも、無かったことにすることに、それとなく手を貸す。
妻が留守中の、心休まる「休暇」が終わったことを、残念に、また煩わしくさえ思いながらも。
また、妻がどこかいつもと違うと感じながらも。

その日、二人の会話がふとかみ合う。
夫の何気ないからかいに、彼女が表情をゆがめた。
やっとかみ合った、そのとき、ロドニーは驚きを隠して、話題を変える。

それまでも、彼は、ジョーンが他人の境遇を「かわいそうな人」と憐れむことを嫌っていながら、彼自身も、妻との話がかみ合わないとき、彼女を見やって微笑み、「かわいそうなリトル・ジョーン」とからかってきた。
妻のものの見方が表面的だからだ。
たしかに、ロドニーは、妻に比べればはるかに見識が高い。
しかし、二人の生き方に、どれほどの違いがあるだろう。

そして、小説の最後の場面でも「かわいそうなリトル・ジョーン」、「ひとりぼっちのリトル・ジョーン」。
否、私にはあなたがいるわと言って駆け寄るジョーンに、「そう、ぼくがいる」と彼は応える。
しかし、彼の独白は、「君はひとりぼっちだ。これからもおそらく。しかし、ああ、どうか、きみがそれに気づかずにすむように」。

一見優し気で頼りになる夫の裏の顔にぞっとさせられるのは、それが彼の精一杯の愛情であり、また彼がどこにでもいそうな男だからである。
この二人のように、結局のところ夫婦が真剣に対立することも、高め合うこともなく、バラバラに生きているケースは少なくないように思われる。

たしかに、日常生活を生きる夫婦が互いに向き合うのは面倒なことであり、また、ロドニーは、子どもの問題の要所、要所では妻とかみ合わずとも話し合い、父親としての役割を果たしてきたと言える。
だから、ジョーンは薄々問題に気づいていた。
しかし、ロドニーに彼自身を超えていく気はなく、妻の気付きの芽を二人して摘み取ってしまう。
そもそも、ジョーンが何食わぬ顔で問題に蓋をしてきたのは、夫も共犯であり、彼の人間としての覚悟に欠ける弱い面を、彼は妻に託して生きさせて、彼自身の問題にはしない。

 3.「自分本位」とは

ジョーンは「自分本位」ではなく、夫のことを第一に、また「子ども本位」に考えてきたのだと自画自賛する。
しかし、果たして「自分本位」がよくないことであり、「子ども本位」がよいことなのか。

その後、彼女は砂漠の駅で、自分が夫第一でも子ども第一でもなく、また、彼女自身のことも置き去りにして、向き合えないできたことに気付く。
つまり、「自分本位」でも「子ども本位」でもなかったのだ。

また、彼女は、夫が働いてきたから子どもたちに「最高」の生活や教育を与えることができたのであり、「お父さまはあなたたちのために犠牲になってくださったのよ」と子どもたちに説いてきた。
それが親の義務であり、どこの親もそういう苦労をしているのだと。

この考え方は、子育ての目標を何だと考えてのことなのか。
本来の親の使命は、子どもを、今の社会を超えていけるような、自立した一個人をして育て上げ、社会に送り出すことだ。
そのためには、親は誰かの「犠牲」になるのではなく、この社会を超えていこうとする、自立した一個人として生きるしかない。

ロドニーが、第一子が生まれた頃に農場経営への転職を思い留まったのは、子どもの「犠牲」になったのだろうか。
妻の反対が理由だろうか。
彼は後々、その時の妻の反対を持ち出しては、冗談めかしてなじっているが、彼に本気で農場経営をする覚悟などあっただろうか。

彼には国の農業政策に問題があるという認識があり、弁護士の知識まで持っているにもかかわらず、問題を多少とも解決して、農業を成り立たせていこうという覚悟は無かった。
だから、生活も成り立たないような農業は選べなかったという彼自身の問題だ。
妻と同様の価値観で、代々の弁護士業という階層に留まる方を選んだだけだ。

なのに、彼が子どもや妻の「犠牲」になったと考えるなら、それは二重、三重の嘘である。
クリスティーは、そういうごく普通の人の、どこにでもある嘘やごまかしを浮かび上がらせている。

「自分本位」とは、たとえば、農業経営に憧れるから選ぶというようなことではなく、その農業経営が成り立つような社会をつくるという自分のテーマ、その闘いを生きることなのではないか。

 

運営委員、山元さんの感想

山元比呂子

自分だけだったら、まずこの本は読まないし、読んだとしても1回読んだだけで打ち捨てていたと思う。
読書会で取り上げられたために、2回目を読んで、参加者の皆様とお話ができて、結果、新たな発見があった。
1回目はジョーンの描写を中心に読み進んだ。

「最後まで自分の作り上げた虚構を信じたまま死ねればよかったのにね。なまじ途中で気がつくことはなかったんじゃない? 周りの人もジョーンにあれこれ言うのは余計なお世話でしょ。」というだけの感想だった。
で、大して感銘は受けなかった。

でも、2回目を読んでみてジョーンズ以外の脇役のブランチ、レスリー、サーシャ、校長先生などの描写を丁寧に読んでみると、いろいろ面白いことが書いてあるのに気が付いた。

 

私はこの本のテーマは、「情熱と分別」だと思う。

ジョーンのように分別ばかりの人生は虚しいものになるし、情熱を追い続けると、現実世界ではいろいろな困難に出くわす。

結局、どっちを取るかはその人次第。人それぞれに分別と情熱の折り合いをつけながら生きていくしかない。

人生を豊かにするのは情熱だし、社会に適合し自分の身を守るのは分別。

この小説は、世の中の多くの分別だけを信じて生きている人たちに対するアガサクリスティの痛烈な批判だと思う。

2021年8月学習会のご案内

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。
親子関係や、子どもたちを取り巻く様々な問題に関して話し合い、学び合う会です。

 

アガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』をテキストとして、下記の通りオンライン学習会を行います。
クリスティーと言えば推理小説ですが、そうではない小説もあり、当初は別のペンネームで出版されました。
その中の一作です。
殺人事件は起こらないのですが、なかなかミステリアスです。

主婦のジョーンは、その才覚と気遣いでよい家庭を築いてきたと自負していましたが、自らの人間性や生き方の薄っぺらさに気付いていきます。
夫や子、その他の誰とも深く理解し合うことのない人生。
そうした生き方のぞっとするような孤独と、その本質を、小説の最後までをかけて描き切っています。

私は、この社会には女性差別がある一方で、家庭の多くは実質的には妻が牛耳っているのではないか、それは一体どういうことなのだろうということが心に引っかかってきましたが、ジョーンもそのタイプです。
私の親世代の家庭の多くがそのようですし、また、鶏鳴学園の生徒たちの作文にもお母さんはよく登場するのですが、お父さんの影がたいへん薄いです。
その現実を、80年も前にクリスティーがリアルに描いていたことも、おもしろいと思いました。

 

どうぞテキストを読んでご参加ください。
小説ですから、いつも以上にラフに話し合いましょう。

 

  1. 日時  :8月1日(日曜)13:00~15:00(今回は、これまでより開催時刻が1時間早いので、その点ご留意ください)
  2. 形態  :Zoomによるオンライン開催
  3. テキスト:アガサ・クリスティー著『春にして君を離れ』(早川書房 クリスティー文庫81)
  4. 参加費 :1,000円(鶏鳴学園生徒の保護者の方は無料です)

 

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

 

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 「家庭・子育て・自立」学習会事務局

『ぼくらの中の発達障害』学習会報告

日時  :2021年3月7日(日曜)14:00~16:30
テキスト:青木 省三 著『ぼくらの中の発達障害』(ちくまプリマー新書)

 

この春も、昨夏、昨冬に続いて、オンラインで開催しました。

テキストの著者、青木氏は、特に思春期・青年期を専門とする精神科医です。

近年「発達障害」という言葉をよく耳にするようになり、2012年の文科省の調査によれば、学校の教師たちが、小中学生の6.5%に「発達障害」の可能性を見ているとのことです。

しかし、そもそも「発達障害」とは何なのか、これが問題だと思います。
この「障害」は、医学においてもまだ半世紀ほどの歴史しかありません。
なぜ、私たちの社会に、今この「障害」に戸惑い、苦しむ人が増えているのでしょうか。

これらが、今回このテキストを取り上げた私の問題意識でした。
青木氏が述べていることは、「障害」を持つ子どもだけの問題ではなく、広く思春期の子どもたちの課題や、人間関係の悩みの本質であるように思えます。

 

以下、テキストについての私の感想と、運営委員の山元さんの感想を掲載します。

 

 

「発達障害」の社会的な土壌

田中由美子

1.「発達障害」の概要

青木氏によれば、「発達障害」は、1943年にアメリカの精神科医から子どもの「情緒的接触の自閉的障害」の症例報告がなされたところから研究が始まった。
それまでは、精神発達の障害と言えば知的障害だけが知られていたが、その後「自閉症」や「アスペルガー症候群」といった、社会性や対人関係に困難があるような「障害」の研究が進む。
現在、その原因は、親の養育や性格などによる心因性ではなく、脳の軽微な障害など生物学的なものとされているが、その詳細はわかっていないとのことだ。

「自閉症」は、乳幼児期から問題が現れ、基本障害は言語/認知機能の障害であるという。
これが「発達障害」の中核的なものであり、その75%が知的障害を伴う。

それに対して、「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」と呼ばれるものは、思春期・青年期に自閉症の傾向が現れ、言葉の発達の遅れは伴わないが、学校や社会での対人関係に困難を抱えることが多い。(二つの名称の違いは曖昧なものであり、青木氏は「アスペルガー症候群」の方が「広汎性発達障害」より障害の傾向が強いと位置づけている。)

有病率は、前者の「自閉症」が1000人に2-3人、後者の「アスペルガー症候群」などが100人に1人という。

なお、この二種の区別が難しいケースもあるという。

また、本書で青木氏が主に論じている「発達障害」は、二種の内、後者の「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」である。

 

 2.社会の変化による「発達障害」

青木氏の「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」についての基本的スタンスは、その要因として、個人の特性よりも、社会的、文化的なものの影響を大きく見ていることだと思う。
それが、本書をテキストにした第一の理由だった。
そうでなければ、この問題に戸惑い、苦しむ人の増加が、説明できない。

まず、経済的には、ここ半世紀で産業構造が大きく変化し、「真面目だが、無口で不愛想な人たち」が働きやすい農業や漁業、または職人などの仕事が激減したこと。

また、社会的、政治的には、共同体にわかりやすい規範のあった以前に比べて、共同体的な人の繋がりが崩れた今、社会の規範が複雑になり、社会でも学校でも「曖昧で流動的な空気を読むことが求められる」ようになったこと。

そして、そのことにより言葉の役割が重くなり、さらに、「言うべき「何か」を持っているかどうか」よりも「コミュニケーション能力」が過度に強調されていることなど、文化や教育の面での問題も挙げている。

そういう社会の変化の中で、「広汎性発達障害」の傾向を持つ人が破綻をきたしやすくなっているという見方だ。

彼は、「特に日本という国、日本文化の中で生きていくというのがより一層困難を与えているのではないか」と述べる。
また、「発達障害の傾向を持つ人が、改めて力を発揮できるようになることが、今の時代と社会に問われている課題の一つ」だと。

 

それは逆に、「発達障害」の増加が、今の私たち、日本社会の問題をあぶりだしているとも言えるだろう。

経済的には、たとえば農業など一次産業が衰退し、食糧の多くを、また農業肥料の原料のすべてを輸入に頼っているというような歪な産業構造は、すべての私たち、日本人にとって大問題だ。

また、社会的、政治的には、「曖昧で流動的な空気を読むことが求められる」ような社会や学校であってはならないということではないか。
それぞれの組織の目的に合ったルールを、主体的、民主的につくっていけるような能力や制度が求められるのではないだろうか。
本質的な最低限のルールさえ守ってさえいれば、個人の自由は守られるという組織や学校でなければならないのだと思う。

私たちの社会の組織や学校がそうなっていないから、文化、教育面で「コミュニケーション能力」がいたずらに強調されているのではないか。
また、「コミュニケーション」の大流行は、対話を重視するという面で正しい方向ではあっても、自分たちの社会がどこを目指すのかという目的を、私たちが定められないでいること、つまり「言うべき「何か」」のナカミが無いことの裏返しでもあるだろう。

 

3.思春期なのに「よい子」

もう一つ大切な観点だと思ったのは、「広汎性発達障害」の傾向を持つ子どもが、思春期に友人や仲間を得にくい要因として、青木氏が、彼らが他の子どもたちよりも長い間「よい子」であり続けることを挙げている点だ。

一般には、「発達障害」を抱える人が他人の気持ちを読み取りにくいからだと説明されるようだが、青木氏は、思春期に大人から与えられた規範に反発したり、自分なりの規範を作り始める同世代に後れを取って、浮いてしまうのだと感じている。

 

これは、学校生活が息苦しいと感じている塾の生徒に私が常々見てきた傾向と、一致する。
学校規範では救われないから苦しいのに、思春期に入っても「よい子」から抜け出しにくい。

さらに、それは今の子どもたち一般的な傾向であるように思われる。
つまり、自立が難しく、自立に至る過程としての反発や疑問が弱い。
戦後、経済が急成長して私たちの社会や豊かになり、子どもは長い期間教育を受けられるようになった。
そのことはもちろんよいことだが、その分親子の一体化は強くなった。
子どもたちが、思春期以降も長い間親に養われながら、精神的な自立を果たさなければならないという矛盾や困難がある。

また、この自立の問題は、今の子どもたちに始まったのではなく、一般には私たち、親の世代からの課題ではないだろうか。
高度経済成長時代に育った私も、親からの自立はたやすくなかったし、今もまだやり残しがあるんじゃないかと感じている。
子どもたちは、ときに、彼ら自身の自立と、親の自立の問題を二重に背負っている。

つまり、思春期の「発達」が、社会全体として難しいのが今である。
自立や、あるいは思春期自体が難しいという社会の土壌があり、「発達障害」的な戸惑いや苦しみが増えているという面があるのではないだろうか。

 

 

学習会と、テキストの感想

運営委員 山元比呂子

家族以外の人と交流する機会がすっかり少なくなっている中で、この読書会で皆様と充実した話ができて、良い刺激になりました。
参加者の皆さまのそれぞれの視点からのお話を聞くことができて、新たな気づきが生まれました。
人との対話を通じて自分の輪郭を知ることができるというのは本当ですね。
おかげさまで、自分でも考えを深めることができました。
また、今回はいつもより少人数の会だったので、ゆっくりアットホームな感じだったのも良かったです。

 

以下、課題本を読んで考えたところです。

P78 「子どものぼんやりとした身体感覚が「痛い」という言葉に結びついていく。」

自分の感覚に言葉を与えることは、大人にとっても重要だ。
ネガティブな感覚・感情には蓋をしがちだが、そこに向き合って言葉にして初めて、ネガティブな感情に対処できる。
言葉にしない限り、その感情に振り回されてしまう。

P91「(コミュニケーション)以上に大切なのは、何を伝えようとするかだ。」

私自身、若い頃はこの問題を自覚していた。
「なぜ、自分の考えがないのか?」と自己嫌悪になったりしたが、今振り返れば、それは常に受け身の生き方だったからだと思う。
それは、自覚の問題であることは否定はしないが、家庭にも学校にも、自分の考えを持ち、意見の違う人たちと話し合うことを積極的に奨励する文化がなかったことが大きい。
今でこそ、「自分で考え、主体的に行動する」ことが表面上は賞賛されるようになってはきたが、それはあくまで親や教師の意向に沿った範囲内でのこと。
実際には、自分の考えを持ちすぎる子どもは、依然として疎まれることの方が多い。
このような文化の中では、どんなに高い教育を受けようとも、自分の考えを持ち、伝えるべき「何か」を持っている人は稀だろう。

P98「彼らの悩みは、どうしようかという迷いではなく、どうにもならないという結論である。」

発達障害の特徴の一つが、柔軟に考えることができないということだ。
曖昧さ・複雑さを処理できない。
だから、白か黒かになってしまう。
誰かから「論理的で、具体的なアドバイス」がもらえば、白い点と黒い点の間がつながって、やっと納得がいく。
このことは、筆者の言う通り、脳の構造という側面もあるだろうが、経験値の少なさが大きな原因だと思う。
少なくとも、「発達障害的な傾向を持つ」程度の人は、多くの社会経験を持ち、経験値が蓄積されていけば、それなりに克服していける。
伝統的な共同体が崩壊し、子どもが多様な社会経験をつみながら育つ場が急速に少なくなっていることが、発達障害的な傾向を持つ人が増えている原因だと思う。

P106「発達障害の傾向を持つ人だからこそ、できる仕事があるのではないか。」

発達障害を一つの際立った個性ととらえれば、社会の多様性につながると思う。
全員が同じ方向を向いて、同じ能力を競っている社会はもろく危うい。
発達障害の人も含めて誰もが、自分の得意・不得意を自覚し、不得意な分野は人と協業するなど補完しあって、自分の得意を生かして働ける社会であって欲しいと思う。

2021年3月学習会のご案内

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。
親子関係や、子どもたちを取り巻く様々な問題に関して話し合い、学び合う会です。

 

来月、青木省三著『ぼくらの中の発達障害』をテキストとして、下記の通りオンライン学習会を行います。
青木氏は、特に思春期・青年期を専門とする精神科医です。

近年「発達障害」という言葉をよく耳にするようになり、2012年の文科省の調査によれば、学校の教師たちが小中学生の6.5%に「発達障害」の可能性を見ているとのことです。

しかし、そもそも「発達障害」とは何なのか、これが大問題だと思います。
この「障害」は、医学においてもまだ半世紀ほどの歴史しかありません。
なぜ、私たちの社会に、今この「障害」に戸惑い、苦しむ人が増えているのでしょうか。

「発達障害」にも様々なケースがあり、安易には論じられませんが、私には、青木氏が述べていることが「障害」を持つ子どもだけの問題のようには思えません。
広く思春期の子どもたちの課題や、人間関係の悩みの本質であるように思えるのです。

ご一緒に考えてみませんか。

 

テキストは、第五章まで目を通してご参加ください。
特に第三章のp89-93、第四章のp100-104について、皆さまはどのようにお考えになるでしょうか。

  1. 日時  :3月7日(日曜)14:00~16:30
  2. 形態  :Zoomによるオンライン開催
  3. テキスト:青木 省三 著『ぼくらの中の発達障害』(ちくまプリマ―新書)
  4. 参加費 :1,000円(鶏鳴学園生徒の保護者の方は無料です)

 

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

 

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 「家庭・子育て・自立」学習会事務局

『校則なくした中学校』学習会報告

 日時  :2020年12月12日(土曜)14:00-16:30
テキスト:西郷孝彦 著『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』(小学館)

 

昨年12月に、8月に引き続きオンラインで学習会を開催しました。

学習会が終わって間もないころ、福岡県弁護士会の調査による「ブラック校則」の新聞報道がありました。
福岡市立中学のなんと8割で、生徒の下着の色を指定していたとのこと。
みなさんも驚かれたのではないでしょうか。
教師による「下着点検」が行われていました。
『校則なくした中学校』が校則をなくしたのには、それだけおかしなことになってしまっている中学校の現状が、背景としてあるのだと思いました。

ところで、その「下着」の校則に比べれば、学校で制服や靴下の色が指定されているのはごく一般的なことです。
指定の色とは異なる靴下をはいて登校すると、注意を受けるようです。

しかし、下着ではなく、靴下の色なら大したことのないことなのだろうか、とも思います。
教師からそういった校則を示され、生徒は無条件に従わなければならない、校則を変えようなどとは思いもつかない、変えることができるのかどうかも知らない、それが生徒たちの現状です。

果たして、その教育の目的は何でしょうか。

 

「世界を変えなさい」

 

世田谷区立桜丘中学校の校長を十年務めた西郷氏の教育理念は、「世界を変えなさい」である。

学校は何のためにあるのか。

たいていの学校では、生徒が今ある社会に適応して生きていけるようにということが教育目標になっていないだろうか。

それに対して、西郷氏は、今ある社会を変えていける人間を育てることを教育目標とする。

 

1.彼自身が学校を変えて見せた

彼はそれまであった校則をなくしてしまった。
何のためだったのか。

制服を着なければならない、遅刻してはいけないといったことが、生徒を委縮させるケースがあることに気付く。
そらならと取っ払って、学校を生徒が安心できる場にしようとした。

しかし、彼はたんに生徒を「自由」にしたのではない。

今あるルールを疑い、教育の本質を問うた。
本来人間に備わった「よく生きよう」という意志は、「安心して過ごせる、安心してみずからを表現できるような環境の中で」発動するのだと彼は述べる。
それを妨げる校則を廃止し、生徒がよりよく学べるように具体的な施策を次々に繰り出す。
校則にただ従うのではなく、自分で考え、判断できる力を養おうとするのは、生徒たちが自分でこの社会を変えていけるようにするためだ。
教師は生徒会が決めたことの実現に奔走し、かつ、様々な立場や利害が絡む現実も学ばせる。

当然、教員に対しても、授業や法律をきちんと勉強して教育界を、そして世界を変えなさいと求める。
そのために管理職を目指しなさいと。

そして、彼自身が学校を変えて見せた。

 

2.批判精神

なぜ、西郷氏は学校を変えることが出来たのか。

まず、彼の批判精神がその本質だと思う。

茶髪にしてきた生徒の後ろに何があるのかを見通す彼の深さと温かさは、ときに生徒への批判の言葉にもなる。

教師の考え方も厳しく批判し、また、どの教師が生徒から人間として評価されないかを露わにして、育てる。

教育とは「心を引っ掻き回すこと」、つまり固定観念を覆し、前提を疑うことを教えることだと彼は考える。
批判精神を育てることが教育なのだ。

彼は、大学卒業後最初に配属された「養護学校」(現 特別支援学校)でも、生徒たちに、周りに世話になっているという遠慮や卑屈さがあると気付き、それを「ぶち壊してやろう」と、抑圧を解き放つような楽しい企画を仕組んでいった。

批判精神を別の言い方にすれば、彼は問題を見ようとする人だ。
漠然と生徒全体を捉えようとするのではなく、「問題を抱えた子」、「困っている子」に焦点を合わせるべきだと繰り返し述べる。

問題にこそ組織の本質が現れると捉え、また、そこに学校をよりよくしていく可能性を見るのだろう。
「問題を抱えた子」に集約して現れてくる問題は、一見問題のない他の生徒たちの抱える息苦しさとつながっていると、私は実感している。
また、学校の「スマホ禁止という建前」への西郷氏の批判に賛成だ。
スマホやSNSに関して実際に生徒間で問題が多発しているのだから、たんに「禁止」にするのは逃げである。

 

3.  学校を社会に開く

西郷氏は、学校を社会に大きく開く。
これが、彼が学校を変えることが出来たもう一つの本質だと思う。

校則はなくとも、法律はあるのだと、彼は学校に警察を入れる。
暴力の問題はもちろんのこと、学校で物がなくなれば警察に頼み、鑑識が来て指紋や証拠を集めて行く。
内内に処理するのではなく、問題を公にする責任を負って、中学校も社会であることを生徒たちに示す。

教員に対しても、「転職」を心に抱けと、教職を離れることも勧める。
教員免許を取ったから一生安泰という前提を考え直すべきだと。
その前提が人間の成長を止めてしまい、また、いざというときの逃げ道をなくしてしまって「教員の心の病」の問題にもつながるのではないかと。

また、彼は学校を変えるために区や教育委員会を巻き込むのはもちろんのこと、企業や地域のあらゆる人たちとどんどん手を組んでいく。
自分で世界を変えるという彼の理念が、地域の人の志と響き合い、それが活きる。
そういう風に私も生きたいと思う。

 

4.何も変えられないと教える教育

西郷氏は、80年代に赴任した、荒れる中学校で、「生徒が生徒を締め付ける」ところに学校の問題を見る。
「自分たちが力で押さえつけられ、学校を楽しめないので、なぜか下級生に対しては教員の代弁者になって、少しでも楽しんでいる下級生を見つけると、「調子に乗るな」と脅したりします」。

これはたんに過去の話ではなく、教師の管理を真似て、生徒が生徒をバッシングし、ときにはいじめに発展することが何度も述べられている。
私も、塾の生徒たちを通して、度々その事例に見てきた。
すっかりおとなしくなった今の中学生たちも、教師の側に立って、校則を破った生徒を責めることが少なくない。
バッシングを受ける生徒だけではなく、バッシングする生徒にもどれだけの不安や抑圧があることか。

多くの中学生にとって、あれをしてはいけない、これをしてはいけないという校則は、ただ教師から示され、無条件に守らなければならないものでしかない。
上からのその抑圧自体を疑うのではなく、逆に、そこから外れた者をさらに抑圧する。

もちろん、指導の責任を負う教師の側に、校則決めに対して生徒より強い権限があってもよいだろう。
しかし、生徒の側に、校則を変える権限が一切ないとしたら、その教育は彼らが社会で生きていくときのためになるのだろうか。
それでは、社会に出て様々な困難や問題にぶつかったときに、すべてをたんに個人の自己責任としか捉えられず、組織のルールを疑うことができないのではないか。

また、人権を保障する法律や組織のルールを盾に、自分の身を守ることもできないのではないか。
校則は本来、たんに生徒の権利を制限するのではなく、その権利を守るためのものでなければならない。

 

5.社会は変えられる

生徒たちが毎日長い時間過ごす学校に安心が無いのは、その教育目標がまちがっているからではないか。
生徒の進路進学を、今ある社会の中の職業や社会的地位の椅子取りゲームのようなものだと捉えていないだろうか。

本来の教育目標は、今ある社会を前提に、自分をどこに当てはめるかという強迫的なものであってはならない、「世界を変えられる」人間を育てることだと、私も思う。
それは自分が変われる、成長できるということでもある。
自分が成長せずに、周りを、社会を変えることなどできないのだから。

西郷氏は、昨年の3月で校長を退任した。
「自分たちで社会は変えられる」、「世界を変えなさい」と教えてきたから、何も心配ないという。

2020年12月学習会のご案内

「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。
 親子関係や、子どもを取り巻く様々な問題に関して話し合い、学び合う会です。

 

来月、西郷孝彦著『校則なくした中学校』をテキストとして、下記の通りオンライン学習会を行います。

テキストは、世田谷区立桜丘中学校の大改革の記録です。
著者は、この公立中学校の改革に10年取り組んできた校長です。

さて、テキストのタイトルですが、校則がないのがよい学校でしょうか。
西郷氏は、なぜ、何をどう考えて「校則をなくした」のか。
現在の学校にどんな問題があり、本来学校はどうあるべきなのか。
また、親子関係は、またもっと広く、教育はどうあるべきか。
内容が具体的で、読みやすく、ヒントが満載です。

みなさま、どうぞ奮ってご参加ください。
テキストは、時間の許す範囲で読んでみてください。
学習会当日、大事な箇所は確認しながら進めます。

  1. 日時  :12月12日(土曜)14:00~16:30
  2. 形態  :Zoomによるオンライン開催
  3. テキスト:西郷孝彦著『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』(小学館)
  4. 参加費 :1,000円(鶏鳴学園生徒の保護者の方は無料です)

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

 

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局