今年2月刊行の著書、『思春期の子どもと親、それぞれの自立 ―50歳からの学び直し―』の書評が、日本教育新聞(9月9日付)に掲載されました。
下記リンクからご覧ください。
鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 「家庭・子育て・自立」学習会事務局
今年2月刊行の著書、『思春期の子どもと親、それぞれの自立 ―50歳からの学び直し―』の書評が、日本教育新聞(9月9日付)に掲載されました。
下記リンクからご覧ください。
鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 「家庭・子育て・自立」学習会事務局
本年3月に刊行した拙著、『思春期の子どもと親、それぞれの自立―50歳からの学び直し―』(社会評論社)をテキストとして、下記の通りオンライン学習会を行います。
本書の内容については、先日下記のページで紹介させていただきました。
著書刊行のご報告 | 「家庭・子育て・自立」学習会 (keimei-tetugaku.com)
思春期のお子様と日々格闘しておられる方々、また、かつて思春期を通ってきたすべての大人の方々、どうぞご参加ください。
本書を一つの材料にフランクに話し合い、それぞれの日々の問題について考えることができればと思います。
記
参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html
鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 「家庭・子育て・自立」学習会事務局
2024年3月5日に、著書『思春期の子どもと親、それぞれの自立―50歳からの学び直し―』(社会評論社)を刊行します。https://www.amazon.co.jp/s?k=9784784517633&tag=books029-22
15年ほど前から国語専門塾、鶏鳴学園の社会人ゼミで私自身が学びながら、中学生クラスの授業を担当してきました。
それまでの人生や子育ての中で、いったい何をどう考え、どう解決すればよいのか、たびたび戸惑い、悩んできましたが、授業で出会う中学生たちも、様々な葛藤を抱えています。
そして、彼らの本音や現実に向き合う中で、彼らが抱える問題は、大人たちやこの社会の問題をそのまま映したものではないかと考えるようになりました。それは、私自身がつまずいた問題や、家庭や学校の問題です。
そういった問題の本質と対策について、かつて中学生だった子どもの親の立場からまとめたのが、このたび刊行する本書です。
刊行準備のためにしばらくこの学習会をお休みしていましたが、今夏、本書の読書会から再開します。
日程が決まり次第、ご案内します。
以下、本書の目次です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第一章 転機
第二章 作文を読み合って話し合う授業
第三章 小冊子「君たちが抱える問題の本質と、その対策」
○小冊子 「君たちが抱える問題の本質と、その対策」
○教材 「部活、サークル、クラスの行事などの問題」
第四章 中学生たちが抱える問題 学校編
第五章 中学生たちが抱える問題 家庭編
第六章 経済成長と「家父長制」の次へ
― 親の、その親からの自立 ―
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
関心を持ってくださった方は、Amazonでご購入ください。
https://www.amazon.co.jp/s?k=9784784517633&tag=books029-22
※ 本書の下記2箇所の脱字について、お詫びして訂正します。
鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 「家庭・子育て・自立」学習会事務局
アガサ・クリスティー著『春にして君を離れ』をテキストに、8/1にオンライン学習会を行いました。
クリスティーと言えば推理小説ですが、この作品では殺人事件は起きません。
主に家庭での出来事や、家族の関係が描かれています。
ところが、なんとも恐いのです。
誤魔化して生きていくことの恐さでしょうか。
主人公のように生きているつもりはないものの、どこまで誤魔化さずに生きることができているのかということになると、他人ごととは思えません。
学習会の参加者からも同様の声があり、自分にも思いあたってグサグサ来たという方もありました。
他方、主人公たちが哀れだという感想や、この小説はリアルではなく、いかにも作り話だという声もありました。
読む人によって評価が大きく分かれる作品のようです。
さて、以下私(田中)の感想と、運営委員の山元さん感想を掲載します。
第二次世界大戦、開戦間近、イギリスの田舎町の中流家庭が舞台だ。
主人公のジョーンは48歳の主婦、夫は弁護士である。
一男二女の子どもたちの思春期以降、夫婦や子どもたちに様々な問題が現れていく。
しかし、ジョーンは、たとえば、彼女が蔑んでいる女性への、夫の熱い想いに、気づきたくない。
また、妻のある年配の男性との長女の熱愛に苦慮しながらも、たんに「汚らしい」関係だとしか解さない。
彼女にとっては、すべては偶然おかしなことが降ってわいただけである。
だから、問題はさらさらと流れ去って行き、「すばらしかったわ、わたしたちの人生は」と言う彼女の容姿は、歳不相応に若い。
夫との会話は常にかみ合わず、子どもからの辛辣な批判も、難しい年頃の彼らの問題だとしか考えない。
むしろ、自分の才覚と気遣いでよい家庭を築いてきたと自負している。
経済的に豊かな階層に暮らしていることに満足し切っているようだ。
ところが、バグダッドで暮らす末娘を見舞った帰り道、悪天候のため砂漠の駅で足止めになった数日間に、彼女は回想を繰り返すことになり、自らの人間性や生き方の薄っぺらさに徐々に気付いていく。
夫や子、その他の誰とも深く理解し合うことのない人生。
末娘に自殺未遂があったらしきことにも、ようやく思い至る。
そうした生き方のぞっとするような孤独と、その本質を、クリスティーは小説の最後の最後までをかけて見事に描き切っている。
ジョーンは、早く家に帰って夫に会い、自分の悔いる思いを話したいと、はやる気持ちで汽車に乗る。
生き直そうと。
ところが、いざ帰宅したジョーンは、結局すべてを無かったことにする。
そのとき、夫、ロドニーも、無かったことにすることに、それとなく手を貸す。
妻が留守中の、心休まる「休暇」が終わったことを、残念に、また煩わしくさえ思いながらも。
また、妻がどこかいつもと違うと感じながらも。
その日、二人の会話がふとかみ合う。
夫の何気ないからかいに、彼女が表情をゆがめた。
やっとかみ合った、そのとき、ロドニーは驚きを隠して、話題を変える。
それまでも、彼は、ジョーンが他人の境遇を「かわいそうな人」と憐れむことを嫌っていながら、彼自身も、妻との話がかみ合わないとき、彼女を見やって微笑み、「かわいそうなリトル・ジョーン」とからかってきた。
妻のものの見方が表面的だからだ。
たしかに、ロドニーは、妻に比べればはるかに見識が高い。
しかし、二人の生き方に、どれほどの違いがあるだろう。
そして、小説の最後の場面でも「かわいそうなリトル・ジョーン」、「ひとりぼっちのリトル・ジョーン」。
否、私にはあなたがいるわと言って駆け寄るジョーンに、「そう、ぼくがいる」と彼は応える。
しかし、彼の独白は、「君はひとりぼっちだ。これからもおそらく。しかし、ああ、どうか、きみがそれに気づかずにすむように」。
一見優し気で頼りになる夫の裏の顔にぞっとさせられるのは、それが彼の精一杯の愛情であり、また彼がどこにでもいそうな男だからである。
この二人のように、結局のところ夫婦が真剣に対立することも、高め合うこともなく、バラバラに生きているケースは少なくないように思われる。
たしかに、日常生活を生きる夫婦が互いに向き合うのは面倒なこと業であり、また、ロドニーは、子どもの問題の要所、要所では妻とかみ合わずとも話し合い、父親としての役割を果たしてきたと言える。
だから、ジョーンは薄々問題に気づいていた。
しかし、ロドニーに彼自身を超えていく気はなく、妻の気付きの芽を二人して摘み取ってしまう。
そもそも、ジョーンが何食わぬ顔で問題に蓋をしてきたのは、夫も共犯であり、彼の人間としての覚悟に欠ける弱い面を、彼は妻に託して生きさせて、彼自身の問題にはしない。
ジョーンは「自分本位」ではなく、夫のことを第一に、また「子ども本位」に考えてきたのだと自画自賛する。
しかし、果たして「自分本位」がよくないことであり、「子ども本位」がよいことなのか。
その後、彼女は砂漠の駅で、自分が夫第一でも子ども第一でもなく、また、彼女自身のことも置き去りにして、向き合えないできたことに気付く。
つまり、「自分本位」でも「子ども本位」でもなかったのだ。
また、彼女は、夫が働いてきたから子どもたちに「最高」の生活や教育を与えることができたのであり、「お父さまはあなたたちのために犠牲になってくださったのよ」と子どもたちに説いてきた。
それが親の義務であり、どこの親もそういう苦労をしているのだと。
この考え方は、子育ての目標を何だと考えてのことなのか。
本来の親の使命は、子どもを、今の社会を超えていけるような、自立した一個人をして育て上げ、社会に送り出すことだ。
そのためには、親は誰かの「犠牲」になるのではなく、この社会を超えていこうとする、自立した一個人として生きるしかない。
ロドニーが、第一子が生まれた頃に農場経営への転職を思い留まったのは、子どもの「犠牲」になったのだろうか。
妻の反対が理由だろうか。
彼は後々、その時の妻の反対を持ち出しては、冗談めかしてなじっているが、彼に本気で農場経営をする覚悟などあっただろうか。
彼には国の農業政策に問題があるという認識があり、弁護士の知識まで持っているにもかかわらず、問題を多少とも解決して、農業を成り立たせていこうという覚悟は無かった。
だから、生活も成り立たないような農業は選べなかったという彼自身の問題だ。
妻と同様の価値観で、代々の弁護士業という階層に留まる方を選んだだけだ。
なのに、彼が子どもや妻の「犠牲」になったと考えるなら、それは二重、三重の嘘である。
クリスティーは、そういうごく普通の人の、どこにでもある嘘やごまかしを浮かび上がらせている。
「自分本位」とは、たとえば、農業経営に憧れるから選ぶというようなことではなく、その農業経営が成り立つような社会をつくるという自分のテーマ、その闘いを生きることなのではないか。
山元比呂子
自分だけだったら、まずこの本は読まないし、読んだとしても1回読んだだけで打ち捨てていたと思う。
読書会で取り上げられたために、2回目を読んで、参加者の皆様とお話ができて、結果、新たな発見があった。
1回目はジョーンの描写を中心に読み進んだ。
「最後まで自分の作り上げた虚構を信じたまま死ねればよかったのにね。なまじ途中で気がつくことはなかったんじゃない? 周りの人もジョーンにあれこれ言うのは余計なお世話でしょ。」というだけの感想だった。
で、大して感銘は受けなかった。
でも、2回目を読んでみてジョーンズ以外の脇役のブランチ、レスリー、サーシャ、校長先生などの描写を丁寧に読んでみると、いろいろ面白いことが書いてあるのに気が付いた。
私はこの本のテーマは、「情熱と分別」だと思う。
ジョーンのように分別ばかりの人生は虚しいものになるし、情熱を追い続けると、現実世界ではいろいろな困難に出くわす。
結局、どっちを取るかはその人次第。人それぞれに分別と情熱の折り合いをつけながら生きていくしかない。
人生を豊かにするのは情熱だし、社会に適合し自分の身を守るのは分別。
この小説は、世の中の多くの分別だけを信じて生きている人たちに対するアガサクリスティの痛烈な批判だと思う。
アガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』をテキストとして、下記の通りオンライン学習会を行います。
クリスティーと言えば推理小説ですが、そうではない小説もあり、当初は別のペンネームで出版されました。
その中の一作です。
殺人事件は起こらないのですが、なかなかミステリアスです。
主婦のジョーンは、その才覚と気遣いでよい家庭を築いてきたと自負していましたが、自らの人間性や生き方の薄っぺらさに気付いていきます。
夫や子、その他の誰とも深く理解し合うことのない人生。
そうした生き方のぞっとするような孤独と、その本質を、小説の最後までをかけて描き切っています。
私は、この社会には女性差別がある一方で、家庭の多くは実質的には妻が牛耳っているのではないか、それは一体どういうことなのだろうということが心に引っかかってきましたが、ジョーンもそのタイプです。
私の親世代の家庭の多くがそのようですし、また、鶏鳴学園の生徒たちの作文にもお母さんはよく登場するのですが、お父さんの影がたいへん薄いです。
その現実を、80年も前にクリスティーがリアルに描いていたことも、おもしろいと思いました。
どうぞテキストを読んでご参加ください。
小説ですから、いつも以上にラフに話し合いましょう。
記
参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html
鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 「家庭・子育て・自立」学習会事務局
この春も、昨夏、昨冬に続いて、オンラインで開催しました。
テキストの著者、青木氏は、特に思春期・青年期を専門とする精神科医です。
近年「発達障害」という言葉をよく耳にするようになり、2012年の文科省の調査によれば、学校の教師たちが、小中学生の6.5%に「発達障害」の可能性を見ているとのことです。
しかし、そもそも「発達障害」とは何なのか、これが問題だと思います。
この「障害」は、医学においてもまだ半世紀ほどの歴史しかありません。
なぜ、私たちの社会に、今この「障害」に戸惑い、苦しむ人が増えているのでしょうか。
これらが、今回このテキストを取り上げた私の問題意識でした。
青木氏が述べていることは、「障害」を持つ子どもだけの問題ではなく、広く思春期の子どもたちの課題や、人間関係の悩みの本質であるように思えます。
以下、テキストについての私の感想と、運営委員の山元さんの感想を掲載します。
田中由美子
青木氏によれば、「発達障害」は、1943年にアメリカの精神科医から子どもの「情緒的接触の自閉的障害」の症例報告がなされたところから研究が始まった。
それまでは、精神発達の障害と言えば知的障害だけが知られていたが、その後「自閉症」や「アスペルガー症候群」といった、社会性や対人関係に困難があるような「障害」の研究が進む。
現在、その原因は、親の養育や性格などによる心因性ではなく、脳の軽微な障害など生物学的なものとされているが、その詳細はわかっていないとのことだ。
「自閉症」は、乳幼児期から問題が現れ、基本障害は言語/認知機能の障害であるという。
これが「発達障害」の中核的なものであり、その75%が知的障害を伴う。
それに対して、「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」と呼ばれるものは、思春期・青年期に自閉症の傾向が現れ、言葉の発達の遅れは伴わないが、学校や社会での対人関係に困難を抱えることが多い。(二つの名称の違いは曖昧なものであり、青木氏は「アスペルガー症候群」の方が「広汎性発達障害」より障害の傾向が強いと位置づけている。)
有病率は、前者の「自閉症」が1000人に2-3人、後者の「アスペルガー症候群」などが100人に1人という。
なお、この二種の区別が難しいケースもあるという。
また、本書で青木氏が主に論じている「発達障害」は、二種の内、後者の「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」である。
青木氏の「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」についての基本的スタンスは、その要因として、個人の特性よりも、社会的、文化的なものの影響を大きく見ていることだと思う。
それが、本書をテキストにした第一の理由だった。
そうでなければ、この問題に戸惑い、苦しむ人の増加が、説明できない。
まず、経済的には、ここ半世紀で産業構造が大きく変化し、「真面目だが、無口で不愛想な人たち」が働きやすい農業や漁業、または職人などの仕事が激減したこと。
また、社会的、政治的には、共同体にわかりやすい規範のあった以前に比べて、共同体的な人の繋がりが崩れた今、社会の規範が複雑になり、社会でも学校でも「曖昧で流動的な空気を読むことが求められる」ようになったこと。
そして、そのことにより言葉の役割が重くなり、さらに、「言うべき「何か」を持っているかどうか」よりも「コミュニケーション能力」が過度に強調されていることなど、文化や教育の面での問題も挙げている。
そういう社会の変化の中で、「広汎性発達障害」の傾向を持つ人が破綻をきたしやすくなっているという見方だ。
彼は、「特に日本という国、日本文化の中で生きていくというのがより一層困難を与えているのではないか」と述べる。
また、「発達障害の傾向を持つ人が、改めて力を発揮できるようになることが、今の時代と社会に問われている課題の一つ」だと。
それは逆に、「発達障害」の増加が、今の私たち、日本社会の問題をあぶりだしているとも言えるだろう。
経済的には、たとえば農業など一次産業が衰退し、食糧の多くを、また農業肥料の原料のすべてを輸入に頼っているというような歪な産業構造は、すべての私たち、日本人にとって大問題だ。
また、社会的、政治的には、「曖昧で流動的な空気を読むことが求められる」ような社会や学校であってはならないということではないか。
それぞれの組織の目的に合ったルールを、主体的、民主的につくっていけるような能力や制度が求められるのではないだろうか。
本質的な最低限のルールさえ守ってさえいれば、個人の自由は守られるという組織や学校でなければならないのだと思う。
私たちの社会の組織や学校がそうなっていないから、文化、教育面で「コミュニケーション能力」がいたずらに強調されているのではないか。
また、「コミュニケーション」の大流行は、対話を重視するという面で正しい方向ではあっても、自分たちの社会がどこを目指すのかという目的を、私たちが定められないでいること、つまり「言うべき「何か」」のナカミが無いことの裏返しでもあるだろう。
もう一つ大切な観点だと思ったのは、「広汎性発達障害」の傾向を持つ子どもが、思春期に友人や仲間を得にくい要因として、青木氏が、彼らが他の子どもたちよりも長い間「よい子」であり続けることを挙げている点だ。
一般には、「発達障害」を抱える人が他人の気持ちを読み取りにくいからだと説明されるようだが、青木氏は、思春期に大人から与えられた規範に反発したり、自分なりの規範を作り始める同世代に後れを取って、浮いてしまうのだと感じている。
これは、学校生活が息苦しいと感じている塾の生徒に私が常々見てきた傾向と、一致する。
学校規範では救われないから苦しいのに、思春期に入っても「よい子」から抜け出しにくい。
さらに、それは今の子どもたち一般的な傾向であるように思われる。
つまり、自立が難しく、自立に至る過程としての反発や疑問が弱い。
戦後、経済が急成長して私たちの社会や豊かになり、子どもは長い期間教育を受けられるようになった。
そのことはもちろんよいことだが、その分親子の一体化は強くなった。
子どもたちが、思春期以降も長い間親に養われながら、精神的な自立を果たさなければならないという矛盾や困難がある。
また、この自立の問題は、今の子どもたちに始まったのではなく、一般には私たち、親の世代からの課題ではないだろうか。
高度経済成長時代に育った私も、親からの自立はたやすくなかったし、今もまだやり残しがあるんじゃないかと感じている。
子どもたちは、ときに、彼ら自身の自立と、親の自立の問題を二重に背負っている。
つまり、思春期の「発達」が、社会全体として難しいのが今である。
自立や、あるいは思春期自体が難しいという社会の土壌があり、「発達障害」的な戸惑いや苦しみが増えているという面があるのではないだろうか。
運営委員 山元比呂子
家族以外の人と交流する機会がすっかり少なくなっている中で、この読書会で皆様と充実した話ができて、良い刺激になりました。
参加者の皆さまのそれぞれの視点からのお話を聞くことができて、新たな気づきが生まれました。
人との対話を通じて自分の輪郭を知ることができるというのは本当ですね。
おかげさまで、自分でも考えを深めることができました。
また、今回はいつもより少人数の会だったので、ゆっくりアットホームな感じだったのも良かったです。
以下、課題本を読んで考えたところです。
P78 「子どものぼんやりとした身体感覚が「痛い」という言葉に結びついていく。」
自分の感覚に言葉を与えることは、大人にとっても重要だ。
ネガティブな感覚・感情には蓋をしがちだが、そこに向き合って言葉にして初めて、ネガティブな感情に対処できる。
言葉にしない限り、その感情に振り回されてしまう。
P91「(コミュニケーション)以上に大切なのは、何を伝えようとするかだ。」
私自身、若い頃はこの問題を自覚していた。
「なぜ、自分の考えがないのか?」と自己嫌悪になったりしたが、今振り返れば、それは常に受け身の生き方だったからだと思う。
それは、自覚の問題であることは否定はしないが、家庭にも学校にも、自分の考えを持ち、意見の違う人たちと話し合うことを積極的に奨励する文化がなかったことが大きい。
今でこそ、「自分で考え、主体的に行動する」ことが表面上は賞賛されるようになってはきたが、それはあくまで親や教師の意向に沿った範囲内でのこと。
実際には、自分の考えを持ちすぎる子どもは、依然として疎まれることの方が多い。
このような文化の中では、どんなに高い教育を受けようとも、自分の考えを持ち、伝えるべき「何か」を持っている人は稀だろう。
P98「彼らの悩みは、どうしようかという迷いではなく、どうにもならないという結論である。」
発達障害の特徴の一つが、柔軟に考えることができないということだ。
曖昧さ・複雑さを処理できない。
だから、白か黒かになってしまう。
誰かから「論理的で、具体的なアドバイス」がもらえば、白い点と黒い点の間がつながって、やっと納得がいく。
このことは、筆者の言う通り、脳の構造という側面もあるだろうが、経験値の少なさが大きな原因だと思う。
少なくとも、「発達障害的な傾向を持つ」程度の人は、多くの社会経験を持ち、経験値が蓄積されていけば、それなりに克服していける。
伝統的な共同体が崩壊し、子どもが多様な社会経験をつみながら育つ場が急速に少なくなっていることが、発達障害的な傾向を持つ人が増えている原因だと思う。
P106「発達障害の傾向を持つ人だからこそ、できる仕事があるのではないか。」
発達障害を一つの際立った個性ととらえれば、社会の多様性につながると思う。
全員が同じ方向を向いて、同じ能力を競っている社会はもろく危うい。
発達障害の人も含めて誰もが、自分の得意・不得意を自覚し、不得意な分野は人と協業するなど補完しあって、自分の得意を生かして働ける社会であって欲しいと思う。
来月、青木省三著『ぼくらの中の発達障害』をテキストとして、下記の通りオンライン学習会を行います。
青木氏は、特に思春期・青年期を専門とする精神科医です。
近年「発達障害」という言葉をよく耳にするようになり、2012年の文科省の調査によれば、学校の教師たちが小中学生の6.5%に「発達障害」の可能性を見ているとのことです。
しかし、そもそも「発達障害」とは何なのか、これが大問題だと思います。
この「障害」は、医学においてもまだ半世紀ほどの歴史しかありません。
なぜ、私たちの社会に、今この「障害」に戸惑い、苦しむ人が増えているのでしょうか。
「発達障害」にも様々なケースがあり、安易には論じられませんが、私には、青木氏が述べていることが「障害」を持つ子どもだけの問題のようには思えません。
広く思春期の子どもたちの課題や、人間関係の悩みの本質であるように思えるのです。
ご一緒に考えてみませんか。
テキストは、第五章まで目を通してご参加ください。
特に第三章のp89-93、第四章のp100-104について、皆さまはどのようにお考えになるでしょうか。
記
参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html
鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 「家庭・子育て・自立」学習会事務局
昨年12月に、8月に引き続きオンラインで学習会を開催しました。
学習会が終わって間もないころ、福岡県弁護士会の調査による「ブラック校則」の新聞報道がありました。
福岡市立中学のなんと8割で、生徒の下着の色を指定していたとのこと。
みなさんも驚かれたのではないでしょうか。
教師による「下着点検」が行われていました。
『校則なくした中学校』が校則をなくしたのには、それだけおかしなことになってしまっている中学校の現状が、背景としてあるのだと思いました。
ところで、その「下着」の校則に比べれば、学校で制服や靴下の色が指定されているのはごく一般的なことです。
指定の色とは異なる靴下をはいて登校すると、注意を受けるようです。
しかし、下着ではなく、靴下の色なら大したことのないことなのだろうか、とも思います。
教師からそういった校則を示され、生徒は無条件に従わなければならない、校則を変えようなどとは思いもつかない、変えることができるのかどうかも知らない、それが生徒たちの現状です。
果たして、その教育の目的は何でしょうか。
世田谷区立桜丘中学校の校長を十年務めた西郷氏の教育理念は、「世界を変えなさい」である。
学校は何のためにあるのか。
たいていの学校では、生徒が今ある社会に適応して生きていけるようにということが教育目標になっていないだろうか。
それに対して、西郷氏は、今ある社会を変えていける人間を育てることを教育目標とする。
彼はそれまであった校則をなくしてしまった。
何のためだったのか。
制服を着なければならない、遅刻してはいけないといったことが、生徒を委縮させるケースがあることに気付く。
そらならと取っ払って、学校を生徒が安心できる場にしようとした。
しかし、彼はたんに生徒を「自由」にしたのではない。
今あるルールを疑い、教育の本質を問うた。
本来人間に備わった「よく生きよう」という意志は、「安心して過ごせる、安心してみずからを表現できるような環境の中で」発動するのだと彼は述べる。
それを妨げる校則を廃止し、生徒がよりよく学べるように具体的な施策を次々に繰り出す。
校則にただ従うのではなく、自分で考え、判断できる力を養おうとするのは、生徒たちが自分でこの社会を変えていけるようにするためだ。
教師は生徒会が決めたことの実現に奔走し、かつ、様々な立場や利害が絡む現実も学ばせる。
当然、教員に対しても、授業や法律をきちんと勉強して教育界を、そして世界を変えなさいと求める。
そのために管理職を目指しなさいと。
そして、彼自身が学校を変えて見せた。
なぜ、西郷氏は学校を変えることが出来たのか。
まず、彼の批判精神がその本質だと思う。
茶髪にしてきた生徒の後ろに何があるのかを見通す彼の深さと温かさは、ときに生徒への批判の言葉にもなる。
教師の考え方も厳しく批判し、また、どの教師が生徒から人間として評価されないかを露わにして、育てる。
教育とは「心を引っ掻き回すこと」、つまり固定観念を覆し、前提を疑うことを教えることだと彼は考える。
批判精神を育てることが教育なのだ。
彼は、大学卒業後最初に配属された「養護学校」(現 特別支援学校)でも、生徒たちに、周りに世話になっているという遠慮や卑屈さがあると気付き、それを「ぶち壊してやろう」と、抑圧を解き放つような楽しい企画を仕組んでいった。
批判精神を別の言い方にすれば、彼は問題を見ようとする人だ。
漠然と生徒全体を捉えようとするのではなく、「問題を抱えた子」、「困っている子」に焦点を合わせるべきだと繰り返し述べる。
問題にこそ組織の本質が現れると捉え、また、そこに学校をよりよくしていく可能性を見るのだろう。
「問題を抱えた子」に集約して現れてくる問題は、一見問題のない他の生徒たちの抱える息苦しさとつながっていると、私は実感している。
また、学校の「スマホ禁止という建前」への西郷氏の批判に賛成だ。
スマホやSNSに関して実際に生徒間で問題が多発しているのだから、たんに「禁止」にするのは逃げである。
西郷氏は、学校を社会に大きく開く。
これが、彼が学校を変えることが出来たもう一つの本質だと思う。
校則はなくとも、法律はあるのだと、彼は学校に警察を入れる。
暴力の問題はもちろんのこと、学校で物がなくなれば警察に頼み、鑑識が来て指紋や証拠を集めて行く。
内内に処理するのではなく、問題を公にする責任を負って、中学校も社会であることを生徒たちに示す。
教員に対しても、「転職」を心に抱けと、教職を離れることも勧める。
教員免許を取ったから一生安泰という前提を考え直すべきだと。
その前提が人間の成長を止めてしまい、また、いざというときの逃げ道をなくしてしまって「教員の心の病」の問題にもつながるのではないかと。
また、彼は学校を変えるために区や教育委員会を巻き込むのはもちろんのこと、企業や地域のあらゆる人たちとどんどん手を組んでいく。
自分で世界を変えるという彼の理念が、地域の人の志と響き合い、それが活きる。
そういう風に私も生きたいと思う。
西郷氏は、80年代に赴任した、荒れる中学校で、「生徒が生徒を締め付ける」ところに学校の問題を見る。
「自分たちが力で押さえつけられ、学校を楽しめないので、なぜか下級生に対しては教員の代弁者になって、少しでも楽しんでいる下級生を見つけると、「調子に乗るな」と脅したりします」。
これはたんに過去の話ではなく、教師の管理を真似て、生徒が生徒をバッシングし、ときにはいじめに発展することが何度も述べられている。
私も、塾の生徒たちを通して、度々その事例に見てきた。
すっかりおとなしくなった今の中学生たちも、教師の側に立って、校則を破った生徒を責めることが少なくない。
バッシングを受ける生徒だけではなく、バッシングする生徒にもどれだけの不安や抑圧があることか。
多くの中学生にとって、あれをしてはいけない、これをしてはいけないという校則は、ただ教師から示され、無条件に守らなければならないものでしかない。
上からのその抑圧自体を疑うのではなく、逆に、そこから外れた者をさらに抑圧する。
もちろん、指導の責任を負う教師の側に、校則決めに対して生徒より強い権限があってもよいだろう。
しかし、生徒の側に、校則を変える権限が一切ないとしたら、その教育は彼らが社会で生きていくときのためになるのだろうか。
それでは、社会に出て様々な困難や問題にぶつかったときに、すべてをたんに個人の自己責任としか捉えられず、組織のルールを疑うことができないのではないか。
また、人権を保障する法律や組織のルールを盾に、自分の身を守ることもできないのではないか。
校則は本来、たんに生徒の権利を制限するのではなく、その権利を守るためのものでなければならない。
生徒たちが毎日長い時間過ごす学校に安心が無いのは、その教育目標がまちがっているからではないか。
生徒の進路進学を、今ある社会の中の職業や社会的地位の椅子取りゲームのようなものだと捉えていないだろうか。
本来の教育目標は、今ある社会を前提に、自分をどこに当てはめるかという強迫的なものであってはならない、「世界を変えられる」人間を育てることだと、私も思う。
それは自分が変われる、成長できるということでもある。
自分が成長せずに、周りを、社会を変えることなどできないのだから。
西郷氏は、昨年の3月で校長を退任した。
「自分たちで社会は変えられる」、「世界を変えなさい」と教えてきたから、何も心配ないという。
来月、西郷孝彦著『校則なくした中学校』をテキストとして、下記の通りオンライン学習会を行います。
テキストは、世田谷区立桜丘中学校の大改革の記録です。
著者は、この公立中学校の改革に10年取り組んできた校長です。
さて、テキストのタイトルですが、校則がないのがよい学校でしょうか。
西郷氏は、なぜ、何をどう考えて「校則をなくした」のか。
現在の学校にどんな問題があり、本来学校はどうあるべきなのか。
また、親子関係は、またもっと広く、教育はどうあるべきか。
内容が具体的で、読みやすく、ヒントが満載です。
みなさま、どうぞ奮ってご参加ください。
テキストは、時間の許す範囲で読んでみてください。
学習会当日、大事な箇所は確認しながら進めます。
記
参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html
鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局
久々に学習会を行いました。
コロナ禍にあってオンライン開催だったことにもよるのか、今回はお父様にも3名参加していただきました。
子どもの教育は母親に任せっきりという家庭はこれまで少なくなかったと思いますが、社会は確実に前へ進んでいるのだと実感します。
また、現在就活中という大学生のお母様の話は、中高生の親御さんたちの悩みの、多少の相対化になったのではないでしょうか。
大学受験のときから、本人の自主性次第だと思ってはいたけれど、社会から隔絶された学校で自分を確立することも難しく、ますます自主性が問われる社会で息子がやっていけるのか不安だと話されました。
なお、私が最近授業や学習会を通して感じていることは、人間の子どもというものは、親のすさまじいまでの子への思いがあってここまでに育ってきたのだなあという思いです。
また一方で、それでも、というか、それだから、いったいどこを目指して教育するのか、その方向性のあり方が重大だと思います。
河合氏もそのことを論じています。
以下に、今回のテキストに沿って私の意見や疑問を述べます。
そして最後に、学習会参加者の感想の一部を掲載します。
価値観の多様化が進んだと言われているが、逆に「勉強ができる子」がよい、「素直なよい子」がよい、という価値の一様化が進んでいると、河合氏は述べる。
大人のその狭い考えは、子どもの問題として表に現れ、そのとき大人は、それを子どもの問題ではなく、自分たちの問題として受け止めて、生き方を深く考え直すべきだと。
しかし、こう言われて、それが自分の問題だと思う親はどれくらいいるだろう。
私も、子どもを育てていた頃、「勉強」がすべてだなどとは思っていなかった。
しかし、じゃあ「勉強」以上の価値は何かといえば、私はそれを明確に持ってはいなかった。
今は、それは「自立」だと考える。
自分の考えの基準やテーマを持って生きられるようになることを、はっきりと教育の目的とすべきだ。
「勉強」はそのための手段である。
そして、子の「自立」を達成するには、親自身も「自立」を追求しなければならない。
そう考えるようになるまで、私は結局、「勉強」と「素直」という一様化した世間の価値で、子どもを育てたのだと思う。
このテキストが書かれてから30年経っても、この問題は今も変わらず、そして大人だけではなく、中学生たちに深く浸透していると感じる。
彼らの多くの意識は、「勉強」ができるといった、教師や親にほめられる生徒を評価し、校則を破るなどして大人に叱られるような生徒の価値を低く見る。
校則の意味を疑うこともなく、正義にもとることをした訳でもない生徒を、教師だけではなく、生徒までもが責めたりする。
大人の価値観がそのまま子に刷り込まれるのは当然だが、そこに疑問を感じ、超えていく可能性が生まれるのが思春期だ。
ところが、その大人や社会への疑問や不満が、きれいに折りたたまれて片付けられたり、不発だったりと、「よい子」が多いと感じる。
河合氏は、不登校を論じたⅢ章4節で、思春期を「さなぎ」に喩えている。
人間が子どもから大人になるのはなかなかたいへんなことであり、「毛虫が蝶になる中間に『さなぎ』になる必要があるように、人間にもある程度『こもる』時期が必要」であると。
そして、「思春期から青年期にかけて、ほとんどの人に、それは何らかの形でやってくる」、何もする気がしないとか、勉強に身が入らないといった形であると述べる。
多くの中学生が、彼ら自身の悩みとして口にすることだ。
河合氏はⅠ章で、そのように立ち止まるということが「内的成熟」のために必要だと論じている。
「内的成熟」こそが思春期に遂げるべき成長だということだろう。
そして、その『さなぎ』の状態が「よりきつい形であらわれてくると、不登校」という形になると見ている。
つまり、彼にとって、思春期と不登校は地続きである。
実際、不登校は、当時も今も中学生に顕著である。
2018年には12万人、中学生全体の3.7%にまでなった。
さらに、不登校気味や教室に入れない等の「隠れ不登校」がその3倍と言われている。
鶏鳴学園では、思春期を、人間の成長の三段階の中の二段階目として考えている。
まず、人間は、生まれてから思春期を迎えるまでは、親と一体の全き世界に生きる。これが第一段階である。
しかし、思春期を迎えると、友人の好き嫌いが明確になり、親や教師など大人との対立も起こる。
外に対立があり、そして彼らの内にも対立する思いがせめぎ合い、葛藤する。
つまり、全き世界に「ひび割れ」が入る。
『さなぎ』にもなる。
人によって、「ひび割れ」がどのように表に現れるのかの違いはあっても、思春期の生徒たちは、誰もがこの第二段階にある。
その「ひび割れ」をどう捉えて親からの自立を果たし、大人になれるのか、自分の答えを出し、自分の世界をつくっていけるのか。
その第三段階はまだ遠い目標だが、「ひび割れ」をしっかり自分で生きて、自立に向けて歩み始めることができるのかどうか。
それが、思春期の課題だ。
ところが、教師や親が、とかく彼らを第一段階に引き戻そう、引き戻そうとしているように見える。
学校での生徒たちの関係は対立だらけだが、「級友のよいところを見るようにしなさい」、「言葉遣いに気を付けて、他人を傷つけないように」と教えることが多いように思う。
第二段階の対立を表面的に回避させようとするばかりで、生徒と共に対立に取り組もうという試みはどれほどなされているのだろうか。
また、学校と親がタッグを組んで、子どもの勉強の管理を強めている。
定期試験の各教科の点数が、学校から親に逐一報告されたり、何時から何時まで何の勉強をしたのかといった生活記録を提出させる学校すら少なくない。
子どもの方でも、友人間の対立や葛藤によって心の中は嵐でも、一方で、対立は面倒だからなかったことにしたい思いもある。
成績を親に責められれば、勉強にやる気が出ないことには蓋をして、おとなしく言うことを聞いておこうとも思う。
第一段階に戻りたいという思いが、彼ら自身の中にもある。
しかし、第一段階の、一体の世界に戻る道はない。
第三段階に向かうための、第二段階の「ひび割れ」や「さなぎ」の意義を正しく認めなければ、先が無い。
河合氏は、本書の中で、直接には父親の役割を論じていない。
しかし、「不登校」を論じたⅢ章で、思春期を迎えた子に一個人として向き合う父親を登場させる。
また、「母性原理」に対する「父性原理」を論じたⅠ章で、親が、子と「一対一で対決し、自分の個人の意見を言うという強さ」を持つ必要性を論じている。
親の個人の確立、つまり自立だ。
子どもが小さいときに母親を助けるイクメンの役割だけでなく、子どもが思春期を迎えたとき、いよいよ父親特有の役割が問われると、私も思う。
ここで断っておきたいのは、母子家庭の場合も、子の思春期には「父親の役割」なるものを意識し、ときには家庭の外の力も頼んで、それをつくっていくことは可能だということだ。
「父親の役割」とは、思春期の最大の課題である、子の親からの自立と、親の子離れのために、特に母子一体化を壊す役割だと思う。
思春期以前の子どもの教育から、思春期以降の新たな段階の教育に切り換えるためだ。
「父親」が常に子どもの教育に関わる必要があるということではなく、その転換をサポートすべき出番というものがあるのだと思う。
多くの家庭では、母親が子どもの誕生からずっと、その生活に密着して世話をしてきて、思春期の今もそれは多少なりとも続いているだろう。
その母親が、子の生活や人生と精神的に一線を画すという切り替えは、母親だけで成し遂げるにはあまりに大きな転換だ。
子どもが社会で生きていく日が近くなったとき、「父親の役割」が問われるのだと思う。
子の新たな成長段階への移行、発展のために、親も「自分自身の生き方について深く考え直す」、そして子育て後の人生をつくっていき、子離れするためである。
このテキストにおいて、河合氏の「個性」の捉え方には疑問を感じた。
主にⅡ章だ。
まず、彼は「個性」を、小さい子どもが元々持っているものとして考えているように思われる。
「子どもが個々にもっている個性を壊す」、「個性の強い子ども」といった捉え方である。
もちろん、小さい子どもにも、身体的にも、性格にも差異があり、それぞれ家庭環境などの背景が異なる。
彼は画一的な教育を批判し、まず個々の子どもの多様なあり方やバックグラウンドの理解が、教育の土台にならなければならないと主張しているのだろう。
それは重要な点だ。
しかし、「個性」の教育を論じるときに、小さい子どもの先天的な差異や、家庭環境といった本人にとって偶然による差異を、「個性」と呼んでよいのだろうか。
私は、「個性」とは、思春期を迎えた子どもが、自ら自己理解を深めて自覚的につくっていくものであり、その問題意識であり、考え方や生き方ではないかと思う。
また、河合氏は「自我の確立」を論じながらも、「集団の一般的傾向と異なる生き方をすること」が「個性」であるかのような論に流れている。
他人と異なるかどうかが「個性」の基準にはならない。
****************************
学習会は初参加でしたが、「個性とは何か」という事を考えるにあたり、河合隼雄が示した事例に対しても、きちんと点検して疑問を持つという着眼は勉強になりました。
息子が思春期を迎え、親の生き方や考え方が問われている事も含めて、親子の関係が新たなステージに入ったことをあらためて実感する良い機会となりました。
「子どもと学校」を読んでみて、強く印象に残った箇所が二つありました。
(1)「問題児というのは、われわれに問題を提出してくれているのだ。学校へ行かなくなった子は、大きい「問題」を親や教師に提出している」(p7)
子どもに問題があったとき、親は、子どもの問題を解決する手助けをしようとする。
親自身が属している大人社会に、子どもがうまく適応できるように手を貸そうとする。
親も、社会に多くの問題があることは勿論わかっている。
でも、社会が変わるより早く子どもの方が大きくなっていくので、どうしても、子どもが今の社会(その一部としての学校)にうまく適応していって欲しいと思ってしまう。
受験が差し迫っているときは、尚更だ。
でも、ここに問題が潜んでいる。こういうときに、子どもが親や教師に問題を提出する。
問題を提出されても、なかなか親にも答えは見つけられない。
鶏鳴学園で聞き書きを推奨している意味はここにあると思う。
完全ではない世の中で、完全ではない親がどのように生きてきたか。
理路整然とした説教よりも懇切丁寧な説得よりも、不格好な親の姿に、子どもは感じるものがあるのだと思う。
(2)「「お勉強」で固められ、遊びの少ない人間は、成人してから創造的な仕事を達成できないのである」(p16)
言うまでもなく、教育はとても価値のあるものである。
でも、教育だけが価値のあるものなのだろうか。
子どもが、学校・部活動、塾・お稽古事で過ごす時間はとても長く、一日の時間の大半を占める。
これらの場では、子どもは「教えられる側」であり、その場のルールに従うことが要求される。自分なりのやり方でやってみる余地はとても少ない。
創造性を育む「教育」ができるのかどうかは、私にはわからない。
でも、時間に追い立てられるような生活の中からは創造性は生まれないだろう。
子どもが幸せを感じるところから、想像性が生まれてくるのだと思う。
【子どもと学校の内容について】
(1) 世の中で多様性が求められる中,学校における価値の一様性は,本書の書かれた1992年から30年近くたった今日でも大きく変わっていない。
(2) 会社などの社会でも, 父性=息子と一対一で対決し,自分の個人の意見を言うという強さ=自立 がより強く求められているが,学校・教育でそのような対応ができていない。
(3) 思春期は「さなぎ」で殻のなかでは常人の想像を絶した変化が生じているという表現は素晴らしく,とても腹落ちした。
(4) 父親として「干渉はしないが,放っておくのではない」接し方を目指したい。
【勉強会の内容】
(1) 子供から思春期を経て大人になる過程の説明を伺い,管理ばかりしていると,子供状態に留め置くことになり,自立した大人への成長を阻害してしまう。ということが理解できました。
(2) 素直なよいこだけでは自立できない。思春期は分裂・反発・対立・問題意識(怒り)を通じて成長する。今まさにその時を迎えている。思春期もしばらくは続くという心の準備をしておきます。
(3) 鶏鳴学園の大学受験に向けた(裏)テーマとおっしゃっていた「親子それぞれの自立」という事を肝に銘じ思春期の子どもたちと接していきたいです。
(4) 参加されたみなさまからも普段は接することができない,思春期前後の子を持つ両親としての育児へのかかわり方・悩みなどのお話しも聞くことができ,非常に参考になりました。
<価値の一様性について>
「価値の一様性」の問題は回避すべきと感じるものの、その代替となる価値を自ら見出すことは容易ではない。例えば、「勉強して、テストでよい点とって成績表が高いほうが良い子」、という価値ではない、別の価値を見出すのは簡単ではない。仮に、勉強の代わりにサッカーという価値を見出しだとして。サッカーの世界では、「ボールを強く蹴れる、足が速い、相手にまけない、試合で点がきめられるのがよい子」という目指す価値があって、それ以外はだめだとされている。これは、学校の世界における一様な価値としての、「勉強ができる」ことを押し付けることと、同様の問題がスポーツ界でもおきていることになるのか?
一方、一様となっている価値には、現代社会において、合理的だと考えられる要素もある。それは経済に関連する話で、それで食べていけるかどうかにという観点で設定されているのではないか?構図としては、勉強して会社にはいってお金を稼げて、のような流れを意識しての、入り口としての勉強してなのか。と。自分で一周して考えて、結果、自分が納得する価値を見出した場合、その結果、その価値が他人とたまたま同じであっても、それは価値の一様性が問題であるとは言わないと考える。
<親が「待てない」ことについて>
まわりみちをして子供が自分で気づき・発見したほうが、そのあとの伸びは早いと考えるものの、自分の人生は一回きりしかないので、気づきが遅い・気づき後の行動が遅い場合、大切な時期を逸してしまう恐れもある。中学校や高校の期間は終わっている場合もありうる。
「待つ」べきだと思うものの、その待つ時間は、期間ごとに何をやるべきかを設定して、その期間内に即して実践的に設定すべきと考える。自立できるまでまっていたら、一生終わってしまう。
田中先生や皆さまのお話は興味深く、あっと言う間に時間が過ぎました。
とっても古い本でしたが根本的な捉え方や考え方、関わりについてはいつの時代も共通しているのだなあと感じながら本を読んで学習会に参加しました。
お父様も参加してくださったお陰で多方面からの意見が聞けて楽しく聞かせて頂きました。
学習会に参加して、思春期のひび割れた状況から子供がどのように大人になっていくのか、きっと見守る事がとても大切なんだと思います。自分で体験し感じること失敗することで大人になって行く。今、思春期で子供も親も大変ですが見守る様、心掛けたいと改めて思いました。しかしそう簡単には行かないのですが、親も我慢ですね。
お金の話で家の家計の話をすると良いと言われて今まで全くした事がなかったので又じっくり話して見ようと思いました。
今回はお話を聞かせて頂いてばかりでしたが貴重な時間となりました。