五月の学習会のご案内

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。年に数回開催し、親子関係や、その他現代の子どもを取り巻く様々な問題に関する悩みを話し合い、ご一緒に考えています。

 

5月は、山田太一の親子論を読みます。
山田氏はテレビドラマの脚本家であり、『男たちの旅路』や、『岸辺のアルバム』、『ふぞろいの林檎たち』など家族を描いたドラマが70~80年代にヒットしました。
今回のテキストは、彼自身の子育てや、子ども時代の経験、親への思いが率直につづられているところが魅力です。

彼は、その経験をもとに、子どもは親の教育次第だなどと考えるのは傲慢であり、親ができることは「ほんの少しばかり」だと述べています。

確かに、子育てのプレッシャーが大きく、子どもも疲れ気味である現状は問題です。

しかし、親に子育てについての一定の責任があるのも事実です。
親ができる「ほんの少しばかり」のこととは何なのでしょうか。
話し合ってみませんか。

 

  1. 日時:2017年5月14日(日曜)14:00~16:00
  2. 場所:鶏鳴学園
  3. 参加費:1,000円
  4. テキスト:山田太一著『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』(PHP新書 2014年)

※第一章のp50までを中心に読みます。拾い読みしながら話し合う気軽な会です。事前に読む時間のとれない方も、ぜひ奮ってご参加ください。

 

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

 

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局

『スマホチルドレン対応マニュアル』学習会報告

テキスト:竹内和雄著『スマホチルドレン対応マニュアル』(中公新書ラクレ2014年)
2017年3月19日(日曜)

 

3月の学習会では、昨年12月に引き続き、再びスマホ問題を取り上げました。
今回も、参加された鶏鳴学園の生徒の保護者の方から、子どものスマホの使い過ぎや、ラインでの友人関係の問題など、様々な悩みが出されました。

中高生の間はスマホは持たせないというのも一つの対策ですが、大学生になってスマホ依存に陥っても困ります。

 

今回はその具体策を考えました。

いつから子どもにスマホを持たせるのか、持たせないのか、ネット犯罪やトラブル、スマホ依存にどう備えるのか、親に何ができるのか。
その具体策です。

 

以下、一つの案として、参考になさってください。

また、参加者の感想の一部も掲載させていただきます。

 

 

子ども自身に安全対策や使い方の案を出させよう

 

子どものスマホ問題について肝心なのは、フィルタリング方法などよりも、子ども自身のトラブル対処の意識の問題です。
その主体的な意識を高められなければ、親が何をしようがスマホ依存もネット犯罪も防げません。
子どもといたずらにもめるばかりで、そのいたちごっこにへとへとになるばかりです。

しかし、子どもが意識を高めるために、参考になりそうな資料はなかなかありません。
今回のテキストも、子どもたちのリアル社会の問題をベースとしてスマホ問題を論じ、また最近のネット犯罪などをわかりやすくまとめている点ではよいのです。
しかし、対策案は「大人の常識を普段から教えよう」、「子どもの言い分をしっかり聞いてあげよう」といった、思春期や自立といった視点の無いものです。

親子で交わす「使用ルール」も、他の本やネット情報と同様、利用時間や場所、禁止事項を並べたお決まりのパターンです。
たとえば、「夜9時~朝6時は電源を切る」、「夜9時に居間の充電器に置く」、「自分の個室では使わない」等々。

思春期、反抗期の子どもに対して、こういうルールが有効に機能するはずがありません。

親や教師が何を言おうが、本人自身の意志がなければ本気では動けなくなるのが思春期です。
この大事な成長に後戻りはないのですから、子どもが自分で本気で考え、自分の人生を生きようとする、自立に向けて、試行錯誤を重ねるしかありません。
そんなことがすぐには実現しないということ、しかし目標は見失わないという二つの覚悟が必要でしょう。

 

そこで、スマホ問題の結論として、子ども自身にスマホ問題を調査、学習させ、安全対策、使い方、契約形態などの案を出させた上で、親子で話し合うのがよいと考えました。
使用時間についても、子どもの案に対して親は意見を述べ、しかし強制や管理はできません。
その前提の上で買い与えるのかどうかを判断し、見守る覚悟が必要です。

問題は、そもそも親子での話し合い自体がムズカシイことでしょう。

しかし、失敗しながらも、お互いに冷静に話し合おうとしていくことが、子どもの自立に向けた歩みになると思います。
料金のことなど親が最終決定権を持つ事項はきちんと示した上で、対等に話し合っていく試みです。

スマホ問題も、親が子どもを管理する形から、子どもの自立へとシフトしていくための、親子双方の試練であり、またチャンスなのではないでしょうか。

 

以下、具体策の考え方、進め方をまとめてみました。
一つのたたき台として、参考にしてください。


目標
  1. 子どもの安全(ネット犯罪、トラブル、依存対策など)。
  2. この問題を通して、子どもの自立を図ること。
 対策

(1)親自身がこの問題について学習し、方針と覚悟を固める。

①いつから使わせ、どう使わせたいのか。

  • 子どもがスマホ問題について自分で調査、学習できるようになってから、携帯またはスマホを使わせることを検討する。おそらく中学生以上。小学生はキッズ携帯。
  • 子ども自身の、安全対策、使い方、契約形態、料金等についての案をもとに、親子で話し合い、合意すれば持たせる。

②安全対策と教育、そしてトラブル対処をどう行うのか。

  • 子どもがスマホやアプリの仕組み、ネット犯罪や依存の現状についてのテキストを選んで学び、対策案を出す。親も学習した上で話し合い、必要なら補足する。
  • フィルタリングは犯罪対策として年齢に応じてかける。Wi-Fi対応やアプリ制限も。(携帯ゲーム機、iPad、音楽プレーヤー等も対策が必要)
  • トラブルが起こることを想定し、その際は親に相談するように伝え、かつ学校や児童相談所、警察、子どもの人権110番、その他の相談機関への連絡方法も伝える。

 

(2)子どもと話し合う

①親として、子どもが中高生時代をどう生きてほしいのか、何を望むのか伝える。(できれば、子どもが調査、学習、立案する前提として、前もって伝える)

  • 「自分づくり」をしっかりやってほしい。どのように生きていきたいのか、大学で何を勉強したいのか、夢をつくっていくことを望む。

 

②子ども自身の、安全対策、使い方、契約形態案をもとに話し合う。

  • 子どもの安全対策とその意識を確認し、また高める。
  • 以下についても話し合うが、最終決定権は親が持つことをきちんと示す。
    *親の名義で契約し、それを子どもに貸与する形にする。
    *契約形態と月々の料金の上限を定め、超過分は子どもが小遣いから支払う。課金の制限、または禁止。
    *個人情報入力やアプリのダウンロードの制限、フィルタリング。
  • 使用時間や場所についても意見交換するが、中高生に対してそれを逐一管理することはできないし、するべきではない。
  • 子どもの意識や親子関係の状態をもとに使わせるかどうかを判断し、使わせた後は、基本的にはゆったりと見守る覚悟を持つ。

③使わせる場合は(1)②はすべて実行し、使い始めてからも必要に応じて話し合い、またトラブルに対処する。


 

◆参加者の感想より

大学生の母、Aさん

それぞれの家族にそれぞれのスマホに対するルールがあるであろう。
ガラ携から当たり前のようにスマホに買い換えた我が家の場合、大したルールも無くこれまでの暗黙の了解が通用すると思っていた。
しかし、子供たちはもはや、スマホは電話の機能以外の使い方しかしていない。
時間があればLINEやSNSをして、インターネットとにらめっこをしている時に何を言っても聞く耳を持たない。
違う時間の過ごし方をしてくれないものかとやきもきするが、子供たち自身がどう過ごしたいのか、自分たちは何を求めているのかを考えて具体的に自立に向けて実行していくしかない。

親が時間を管理しようとする前に、もっと話し合っておくべきであった。
例えば、料金やトラブル対策等についてである。何も話し合っていない、何も調べていない、何も考えていない。
反省すべき点は、スマホとの付き合い方ではなく、私たち親子の関係、また、私の生き方そのものであった。

 

高校生の母、Bさん

スマホにまつわる悩みついては、子供の成長とともに少しずつその内容は変化しながらも、常に漠然と頭の中に存在してきました。
今回、テキストを読み、いろいろな意見や体験などを聞き、自分の考えを言葉にすることによって、この問題への向き合い方が少し整理されたような気がします。

皆さんとの話し合いを通して改めて感じたことは、子供たちの抱える真の問題は別のところにあり、それらがスマホを通して浮かび上がっているに過ぎないということです。
依存を防ぐために時間や場所を決め、フィルタリングをしたとしても、それらは対処療法に過ぎず、結局のところ、それらの問題に向き合うこと無しに本当の解決への道筋は見えないのだと思いました。

大学が研究から社会人教育の場へと変化する中、その余波が高校、中学、小学校にまでも及び、親が感じる不安やプレッシャーが子供の時間や自信を奪っているのかもしれません。
その逃げ場として、深夜のゲームやLINEが機能している側面もあるのではないでしょうか。
スマホに溺れず、ツールとして自在に使いこなせる強さを育てるためにどうすれば良いのか、これからも試行錯誤を重ねて行きたいと思います。

 

高校生の母、Cさん

高校生男子の親として、学校の保護者会でもママ友との会話でも頻繁に話題に上がるスマホ。
私も頭を痛めていたのだが、この問題を取り上げた本があることも知らなかったし、当然ここまで考察されたものを読んだことはなかった。
私はスマホやネットを、これからの時代なしでは生きていかれないものである一方で、ついつい依存してしまう危険があり、勉強時間が確保できなくなるリスクがあるもの、と思っていた。
正直、自分自身の学生時代にはスマホはおろかネットすらなかったので、この問題をどのように考えたら良いのかという視座もなかった。

今回学習会で、この本を読んで、学習会で参加者の皆さんとお話をして気がついたことは次の二つだった。

  1. 今の子どもたちは、リアルで知っている人たちとの対面でのコミュニケーション、電話でのコミュニケーション、文章でのコミュニケーション、という段階を十分に踏むことなく、未成熟な年齢で世界中と繋がっているとも言えるネット上のSNSの世界にデビューしてしまう。
  2. 思春期は、友達から自分がどう見られているか、友達との関係性に過敏になる時期であるので、LINEなど友達とのSNSは子どもの生活に大人が想像できないほど大きな影響力を持つ。

いずれもとても難しい問題だが、このような状況に子どもたちが置かれているという点についての理解がなければ、子どもと話し合うことは難しいだろう。
そして、今回の学習会で改めて気づいたことは子育ての最終目標は「子どもの自立」だということ。
スマホ問題も、勉強時間の確保という視点だけではなく、最終的には、スマホやネットとの付き合い方を自分で考えて自律できる大人になるという視点から考えることが大切だ。
スマホとの付き合い方は私自身難しい。
でも、学習会に参加して2時間以上たっぷりと皆さんとお話できて、新しい視座を発見できて少し気が楽になった。

三月の学習会のご案内

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。年に数回開催し、親子関係や、その他現代の子どもを取り巻く様々な問題に関する悩みを話し合い、ご一緒に考えています。

 

3月の学習会は、昨年12月に引き続きケータイ・スマホがテーマです。
今回は、子どもにケータイ・スマホを買い与える保護者として知っておくべきこと、やっておくべきこと、また、この問題の親子間での話し合いなど、具体策について考えます。

まず、子どものスマホに関してどんな問題が起こっているのか、起こり得るのか、友人関係の問題の他、一般社会とネットでつながることによるトラブルについても学びます。

Wi-Fiにも対応するフィルタリングなど技術的な対策の情報を得て、またそのことを含めて子どもとどのように話し合っていけるか、考えてみましょう。
使い方のルールを親子で交わすとすれば、どんな項目にすべきでしょうか。
本やネットで見られるルールの例は、たんに「時間管理」のためのものが多く、子どもの反感を買うだけで、実生活で機能しそうにありません。
いくつかの例をたたき台にして、私たちそれぞれの思いを込めたルール案も考えてみます。

すでにお子様にスマホを持たせておられる保護者の方、またゲームの問題にお悩みの方にも、参考にしにしていただけると思います。

 

なお、今年は、学習会の時間を、これまでの2時間半から2時間に短縮します。
どうぞお気軽にご参加ください。

  1. 日時:2017年3月19日(日曜)14:00~16:00 
  2. 場所:鶏鳴学園
  3. 参加費:1,000円
  4. テキスト:竹内和雄著『スマホチルドレン対応マニュアル』(中公新書ラクレ2013年)
    ※ 学習会では4章や5章などを中心に大切な箇所を拾い読みしながら進めます。事前に読む時間のとれない方も、ぜひ奮ってご参加ください。

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局

『「ケータイ時代」を生きるきみへ』学習会報告

テキスト:『「ケータイ時代」を生きるきみへ』学習会(岩波ジュニア新書2009年)
(2016年12月11日(日曜))

 

12月の学習会には、中学生、高校生、大学生の保護者の方、6名が参加されました。

今の子どもたちの生活に大きな影響を与えているケータイ・スマホの問題は、私たちにとって新しい問題であり、前々から気になりながらやっと手を付けられたというのが正直なところです。
参加者の方と日頃の悩みや疑問を出し合い、本来この問題はどう考えていくべきなのか、話し合いました。

学習会を終えての私の感想と、参加者の感想の一部を掲載させていただきます。

 

スマホ問題の解決を通して「自分づくり」を
1.   「自分づくり」ができないスパイラル

親や学校にとっての子どものケータイ・スマホの悩みの多くは、使い過ぎによって勉強時間が少なくなるという問題のようだ。
子どもが勉強のためにきちんと「時間管理」をしてほしいというのが多くの保護者の願いである。
実際、最近の高校生のケータイ・スマホ利用時間は、一日平均2時間にもなるという。
3時間、5時間も、また実質的には24時間スマホに「支配」されているような状況も珍しくない。

一方、尾木氏の問題意識の中心は、中高生の最重要課題である「自分づくり」がケータイによって妨げられるのではないかというものだ。
思春期にある中高生が自分自身について深く考えることなく、ケータイでの安易な自己確認や自己顕示に走ることを懸念する。

 

もちろん、勉強も「自分づくり」の大切な要素だが、実際に子どもがスマホやタブレットの「時間管理ができない」と嘆く保護者は多く、「時間管理をしなさい」という指導はあまりうまくいっていないのも事実だ。

彼らは、勉強を怠けてスマホで楽しんでいるというよりも、スマホや、スマホを通しての友人関係に流されないほどの確かな自分自身をまだ持たず、スマホに吸い寄せられているのではないだろうか。

瞬時に友だちとつながる高機能は、思春期の強い自意識や友だち依存の特性とあまりに相性がよい。
下校後にも学校の友人関係に配慮して延々とラインを続けたり、またライン外しのようないじめや陰口の問題もある。
子どもたちが、思春期という不安定な成長過程にあって友人関係に悩むのは当然だが、スマホによって問題はよりややこしくなっている。
そもそも学校での友人関係に問題があるから下校後にまで引きずるのだが、スマホはそれを可能にしてしまう。

「自分づくり」が進まないからスマホやタブレット、またゲームに流れ、ますます「自分づくり」が進まないという悪循環が生じているのではないか。

 

学習会では、中学生の息子にもっと思春期らしく「悩んでほしいのに…」という思いや、大学生の娘が「友人と会って話したナカミなどよりも、写真や動画をSNSやYouTubeにアップすることに忙しい」ことへの心配も語られた。

 

2.  「友情」よりも、自分のテーマ

尾木氏はテキストの中で、大学生のひきこもりが増えているという問題を挙げている。
中高生のときに自分自身の意思で行動した経験がなく、「親の価値観や学校で教えられた価値観」しか持たず、動けなくなる大学生だ。
そうならないように「自分づくり」が必要だと説く。

確かに、ケータイ・スマホ問題に現れている子どもたちの本当の問題は、今現在の問題に留まらず、この先も、大学生、社会人として、周りや社会とどう関係して生きていけるのかという問題だ。

 

ただし、彼の考える「自分づくり」のナカミは、思春期の心、「内面」の成長に偏っているように思われる。
「友情」や「思いやり」、「人を傷付けない」ことを学び、「自分らしく」生きるというところに留まる。
確かに、思春期の葛藤がどれほど大切かという問題提起は重要だが、自分自身として何をテーマとして生きるのかという、「自分づくり」の核心が抜け落ちているのではないか。

それではひきこもり問題も、スマホの問題も解決できない。
子どもたちの多くは人間関係を軽視しているのではなく、むしろそれは重く、「自分づくり」の方は進められずにひきこもり、またスマホにかじりついているのではないか。

 

また、子どもがスマホを持たなければ「自分づくり」が進むという訳でもない。
社会全体が目的を見失った現代における、子どもたちの「自分づくり」の難しさが、スマホ問題によって浮き彫りになっているだけではないか。

尾木氏が現役教師だった時代の、テキストに登場するかつての子どもたちの大人への反抗は、今はぐっと弱まって、そのエネルギーがより多く子どもたちどうしに向けられているように感じる。

本来は、スマホや友人関係に関して今実際に起こっている個々の問題に向き合うことを、彼らの「自分づくり」に組み込まなければならないのではないか。
子どもたちの「自分づくり」は、そういった子どもたちの生活に根付き、そして彼らの生きるテーマをつくっていくようなものでなければならない。
また、そういった「自分づくり」の一環としての取り組みでなければ、スマホにまつわるトラブルも解決しないのではないか。

 

3.   「管理」でも「放任」でもなく

ところが、大方の中学、高校は、建前としてのケータイの持ち込みや使用の「禁止」と、そのルール違反に対する「没収」でお茶を濁している。
当然、ラインのトラブルや下校後のスマホ依存に対しては何もできない。

保護者も戸惑っている。
学習会の参加者は、スマホに関しては子どもの知識の方が親を上回ることへの不安を語った。
尾木氏も、そんなことは「子育てと教育の歴史上はじめてのこと」と述べる。
また、この全く個人的なツールは、子どもが何をしているのか、ナカミが見えないブラックボックスである。子どもが家庭の固定電話を使っていた頃のように、それとなく様子を知ることもできない。
犯罪を含めたトラブルの心配もある。

 

なんと難しい問題が、子育てに登場してしまったのだろう。
容易に管理もできなければ、さりとて様々な危険性に目をつぶる訳にも、また彼らが「自分づくり」を進められないままに放任する訳にもいかない。

尾木氏は、「現実の日本社会をいかに人権尊重とモラルに満ちた民主主義社会に変革することができるのか、その本質的な問いかけが、ネットによるバーチャルタウンの出現によって試されている」と述べる。

つまり、ネット依存やいびつな自己顕示、人権侵害などの問題は、私たちが普段の生活や社会の中で、まだ十分に対等で民主的な人間関係を築けていないことの反映でしかなく、ネット問題解決のためには、現実社会をよりよくする以外にはない。

私たちはいよいよ、子どもの教育についても、これまでの「管理」か「放任」かという二択の教育ではどうにもならないところまで追い詰められたのではないだろうか。
子どもたちが親や学校にこれほど強く管理される現代に、逆に、大人が容易には管理できないようなスマホが現れたのは不思議な矛盾だ。
私たちは、スマホという難しい宿題によって、一方的な管理教育でもなく、「子どもは自由にさせています」でもない、一つ上のレベルの子育てへ進むようにと背中を押されている。

子どもの自立、「自分づくり」を目指す私たちは、スマホ問題に対しても、「禁止」と「没収」、「管理」と「放任」を超える代案を出していかなければならない。

 

※スマホ問題の直接的な具体策については、『スマホチルドレン対応マニュアル』学習会報告をご覧ください。

 

◆参加者の感想より

□思春期の子供たちが抱える問題は、思った以上に深刻であった。思春期という心身ともに不安定な中で、現社会のみならず、大人たちが作り上げたネット社会の中に一旦足を踏み入れたら、もしくは、引きずりこまれたら、自分の知らないもう一人の自分が一人歩きをしてしまうのではないかという怖さがある。「携帯・ネット」の問題は、親である私たちがその全体像を把握できていないところにもある。いじめの手段や中傷の書き込みはどこまでどう広がっていくのかわからないのが怖いのである。このような複雑な環境の中で振り回されずに自分を見つめることはとても難しいと思う。

しかし、ネットの中で繰り広げられているバーチャルな社会も、「れっきとした社会現象にすぎない」と、著者は述べている。「私たちのこのアクチュアル(現実的)な生活そのものなのです」とある。
結局、「携帯・ネット」問題は、現社会に生きる私たちの問題そのものであり、いじめや、自立の問題なのである。これからも、子供たちと一緒に「携帯・ネット」を勉強しながら、自分探しをしていくしかない。

 

□まず、学習会に参加して良かったと思うことがあります。それは普段、忙しさを理由になかなか読書に手が届かない日々を過ごしてきましたが、このように期限と課題があると時間の合間をぬってできるものだと痛感いたしました。
そして読書した後もテーマについてあれこれ考えることが、今までに無い時間を過ごすことができとても有意義でした。

子供たちの携帯の所持率が上がりつつある頃、私は好ましいこととは思いませんでした。学校で友達と会っている時に話せることを家に帰ってから何故わざわざ携帯を使って連絡し合わなければならないのかと。
その後も携帯が及ぼす悪影響についてばかりが耳に入り、この先子供たちは大丈夫なのかと不安にさえなりました。
しかし、我が家の息子達は今となっては携帯が及ぼす悪影響についてもだいぶ熟知し、逆に便利なツールについての知識が増えてきて上手く付き合えるようになってきました。
著者も語っていたように携帯を子供たちから塞ぎ込むのではなく充分に子供たち自身に携帯について考えたり話し合う機会を設け、それは家庭から学校、地域で取り組むべきなのだと共感いたしました。
そして親も一緒に学ぶ努力も必要だと改めて思いました。

 

□デジタル時代に生きるということで、インターネットやラインなどは当然主要なコミュニケーション手段です。ただ、あまりにも簡単につながれるということから、依存してしまうのも理解できます、自分自身のことも含めて。
今日の会では、自分づくりに思春期のなかで、どう取り組んでいくかが最重要だなと感じました。コピペ、絵文字が簡単に使え、画一的な表現、自分づくりしかできなくなっているのかも、それにこそ、危機感を持つべきじゃないかと感じました。
個の確立をどう手助けできるかということで、これから高校生になった時、スマホを与える機会を、単に使用のノウハウだけでなく、アナログ時代の親とデジタル時代の息子との、それぞれの思い、心配、期待などをシェアする場にしたいと思いました。
自分づくりは、一生涯の仕事ということは、日頃から私自身痛感することでもあります。それはデジタルで気軽な方法だけではできないということをなるべく早く気づいて欲しいと感じました。一人っ子、男子校、共働きと、リアルな生活も非常に限定的な中で、夢中になれるものが一つでも見つかってほしいです。

 

□親でも扱うことの難しいスマートフォン。まだ持っていない息子にとてもタイムリーな話題でしたので、今回参加をさせていただきました。

本書では、中高生の成長を通しての携帯との付き合い方について書かれていました。中でも気になったのは、現在の「大学生」についてでした。私の中の「大学生」という存在は、完成された大人のイメージでしたが、最近の大学生は引きこもりなど問題があるように思います。「本当の自分」がわからず、あるのは親の人生観や学校で教えられた価値観ばかりと気付いた子達が心のバランスを崩してしまうようです。
そうならないためには、中高生時代の「新しい自分づくり」が大切だと本書では言っています。壁にぶつかったときに身軽に検索で答えを求めてしまう、またはメールやラインで友だちと共感を得るなど、現代の子達は簡単に回答を手に入れてしまいます。とても便利であると思う反面、自分と向き合う大切な時間を見失ってしまう可能性もあります。
この情況は子供だけに限ったことではないと思います。自分の学生時代を振り返ると、今みたいに便利ではなかったこともあり、何かしら不安を抱え込んでいて、自問自答を繰り返していたように思います。しかし、大人になり、スマートフォンという便利なものに出会ってからは、簡単に回答を得てしまう自分がいました。そして何の解決にもなっていない自分にも気が付きました。今の子供達はより慎重に上手に付き合うことが大切だと思います。

十二月の学習会のご案内

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。年に数回開催し、親子関係や、その他現代の子どもを取り巻く様々な問題に関する悩みを話し合い、ご一緒に考えています。

 

12月は、尾木直樹著『「ケータイ時代」を生きるきみへ』をテキストに、「携帯・ネット」がテーマです。
どうぞお気軽にご参加ください。

  1. 日時:2016年12月11日(日曜)14:00~16:30 
  2. 場所:鶏鳴学園
  3. 参加費:1,000円
  4. テキスト:尾木直樹著『「ケータイ時代」を生きるきみへ』(岩波ジュニア新書)

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
ご連絡をお待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

 

  *** テキストと読み方について ***

このテキストで注目すべきは、尾木がたんに「ケータイ依存」への対処法を述べているのではなく、思春期の子どもたちの自立や人格形成のために、ケータイやネットの問題をどう考えるべきか、論じている点です。
「新しい自分づくり」や「精神的な自立」(p70・71)、「個の確立」(p158)を問題にしています。
また、大学生になってから「親の人生観や学校で教えられた価値観ばかり」の自分の空虚さに気付き、ひきこもるケースについても述べられています(p159)。

また、「人権」や「民主主義」という視点を重視しています。(p43、151、185)。ケータイやネットを通して人権が軽視されることに問題があり、そもそも、それはリアル社会の問題でもあると述べています。

後者の、民主的な人間関係を私たち大人が築き、子どもの人権も十分に尊重されなければ、前者の子どもの「個の確立」や「自立」も達成され得ないのではないでしょうか。
学習会では、主に以下の箇所を取り上げます。
40ページほどですが、学習会の中でも拾い読みしますので、テキストを読む時間のない方も、遠慮なく参加してください

1章 p2~19
3章 p48~50、70~71
4章 p85~87
6章 p150~153
7章 p156~159
8章 p182~186、p213~215

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
ご連絡をお待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局

『「個性」を煽られる子どもたち』学習会報告

『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波ブックレット2004年)学習会
(2016年10月30日(日曜))

10月の学習会には、私の勤める国語塾、鶏鳴学園の生徒の保護者の方と、卒塾生の保護者、および卒塾生が参加されました。
休憩時間中もお話し合いが絶えず、ひとりで悩むことの多い子育ての問題について、他の保護者と話し合えてよかった、気が楽になったとの声もありました。

また、参加者の方から、学習会の感想として、「個性」とは結局何なのかという戸惑いの声と共に、それぞれの答えが寄せられました。

今回、「個性」という難しいテーマが焦点になりましたが、みなさんの関心の高さに背中を押されました。
子どもたちももちろん悩んでいますが、それがはっきりするまでに相当時間がかかるのに対して、私たち大人はすでにいろいろな問題意識がコップ一杯になってあふれていると感じました。
そのことに十分応えられるように、より一層よく話し合えて、学び合える学習会にしていきたいと思います。

以下に、学習会を終えての私の感想、特に個性についての考えを掲載します。
また、参加者の感想の一部も掲載させていただきます。

 

問題意識こそ、個性
1. 友人関係の息苦しさ

今の多くの子どもたちの友人関係は、とても息苦しいもののようだ。
その状況を知る入門書として、本書を取り上げた。
参加者の一人は、初めてその状況が少しわかって、以前子どもに、その友人関係について的外れなことを話したと振り返った。
時代の変化は早く、私たち大人が今の子どもたちのことを理解するのは難しい。

土井氏は、彼らの「友だち関係の重さ」や「優しい関係」、その息苦しさを的確に指摘する。
また、特殊な事件の根底にある、広く一般の子どもたちに共通する問題が、調査に基づいてわかりやすく説明されている。

2. 生きる目標や指針がない

ただし、本書には問題解決の展望がない。

子どもたちの「親密圏の重さ、公共圏の軽さ」という現象を現象のまま捉えたのでは不十分であり、その本質は、「親密圏」、「公共圏」を問わず、あらゆる人間関係の「軽さ」、「他者の不在」である。

また、それは子どもたちだけの問題ではなく、大人社会の同じ問題の反映でしかない。
たとえば、現在保護者と学校は、学校や家庭の問題について十分に話し合えるような状況にはなく、同じく、子どもたちどうしも互いの対立やトラブルが表立たないように気を遣い合って、深くは関わり合わない。

それでも、人間は本来他者との関係の中でしか自分を展開できず、大人も子どもも手近な親密圏の人間関係に頼りがちである。
その重くて薄い関係には、問題があると同時に、潜在的には外とつながる本来の生き方への希求があるのではないか。

しかし、私たちにはまだその指針がない。

経済成長を目的に生きた祖父母や、親の、次の世代として、何を目標に生きればよいのか、私たち自身が戸惑っている。
今の社会には、皆で共有できる、わかりやすい目標はない。
たとえば、偏差値の高い学校を目指すことも、かつては社会全体の経済発展という目的を共有することでもあったが、経済発展の難しい今は、たんなるお互いの競争になりがちだ。

子どもたちもどう生きたらよいのかわからず、彼らの意識が人間関係や処世術に吸い寄せられ、その苦しみが「いじめ」やその特質としても現れているのではないか。

3. 問題意識こそ、個性

私は、土井氏の主張する、個性が「社会規範」と化しているという矛盾が問題だとは思わない。
問題は、個性のナカミだ。

また、個性が他人との比較による相対的なものだという土井氏の考えに反対だ。
「比較」は、子どもたちが自分の生き方を考え始めるために必要だが、その一契機でしかない。

彼らが「自分の感覚こそが、ともかく最優先」という状況だとも、それを個性だと本気で考えているとも思わない。
表面的な感覚を優先していたとしても、肝心な感覚は抑圧し、それをおいそれとは外に出せないのが、子どもたちの実態だ。

私の考える個性とは、他ならぬその人自身が、自分のそれまでの人生をどう理解し、この後の人生をどうつくっていきたいのかという自己理解である。
また、これからどう生きていくのかを考える中で、それまでの人生への理解を深めていく、その全体が、自己理解=個性だ。

また、それは単に自己満足的なものではなく、客観的、具体的なものでなければ、個性とは言えない。
自分は他者や社会とどう関係してきたのかを具体的に振り返り、そして今後はどう関係して生きていくのか、という客観性や具体性だ。

つまり、自分を含めた人間というものや、人間の人生を、またこの人間社会をどう理解し、どんな価値基準を持って生きるのか、その自己理解=他者理解=個性だ。

たとえば、中高生がどんな職業に就きたいのかが、個性や夢ではない。
個性や夢とは、医者になりたいという思いではなく、どんな医者になりたいのか、医者になって今の社会のどんな問題を解決したいのかという問題意識だ。

また、個性は若者だけの課題でも、夢でもない。
私たちは誰もが、自分の存在や人生は何だったのか、何なのかを死ぬまで問い続ける。
その日常生活の中での具体的な問題意識が個性であり、またそれが、自分の個性を全面展開する唯一の源だ。

現実にぶつかって心が折れる中にこれからの自分があると、自分に言い聞かせる毎日である。

田中由美子

 

◆参加者の感想より

卒塾生の保護者、Aさん

この春、高校を卒業して4月から大学生になった娘は、新しい環境で新しい友達と新しい付き合いが始まっている、はずであった。しかし、実際には、スマホを片手に以前と何も変わらない、差し障りのない言葉のやり取りをするその場しのぎのお付き合いが夜中を過ぎてもほぼ毎日続いている。

作者のいう、「優しい関係」である。

良好な関係を築くため(壊さないため)に、自分の気持ちよりもその場の空気を優先して、その時を乗り切っていく刹那的な関係は、常に気が休まらずにさぞかし疲れるであろう。

実は、親である私自身が言葉遣いに気を配り、極力波風を立てないような対人関係を目指し、「優しい関係」を築いて過ごしてきた。母親にでさえ、未だにストレートに本音や感情を表すことができずにいる。その結果、今になって、もどかしさや息苦しさが溢れ出して自分に大きくのしかかってきている。家庭論学習会に参加させていただき、少しでも何かを学びたいと思ったきっかけの一つである。

子供たちが小さい頃から、「たくさんのお友達を作って、みんなに優しくしてね。」と、伝え続けてきた子育てを振り返り、その言葉の意味を改めて深く考え、遅ればせながら親が子に与えた影響を学習会を通して考える機会をいただいた。今後、母と、そして、子供たちとどのように関わって過ごしていきたいのか。何より、子供たち自身は、本当は私とどのように付き合っていきたいと思っているのか、または、本当はどのようなことに負担を感じているのであろうか。

この、本当はどうしたいのか、本当は何をしたから辛かったのか、という心の奥底の声に素直に耳を傾けると、自分の「個性」が見えてくるのであろう。

 

生徒の保護者、Bさん

テキストについては答えが見つからずに終了したように思いましたが、私にとっては初めて皆さんとあのようにお話し合いができたことにとても意味のあった会でした。

現代の子供たちの友達関係は確かに複雑化しているように思いますが、1人1人は自分の目的を探す為に必死になっていてそれがなかなか見つからず友達との関係に固執してしまう傾向にあるのかな?と思いました。

我が家の息子達も今、自分のやるべきことが見えている時は友達とのLINEなどそれ程気にする事もなく上手く距離を置いて付き合っているように思いました。

大人も忙しくしている時は周りの人間関係をさほど気にせずにいて、時間を持て余すと余計なことまで考えてしまうように思います。

子供たち1人1人が自分のことに関心を持ってこれからのことを真剣に考えていけるような機会や場所が学校の中だけでなく、もっとたくさんあったら少しずつでも変わっていけたらなと願うばかりです。

 

生徒の保護者、Cさん

素の自分の表出・・・自分の思いを優先しストレートに発露する
装った自分の表現・・・自らの感情に加工を施して示す

本書では、この二つを対比させていましたが、私は「自分の思いを、偽ることなく 相手が理解したい、聞いてみようかな と思うような表現をする。」のが理想的だと思いました。娘がこんな風にできれば、いずれ社会に出たときに、苦労があったとしても 理解者を得て頑張れるのではないかと思っています。

自身を振り返ると 若いときは、伝えたい自分の思いがあったけれど、表現ができず 遠回りをして それでも伝わらず あきらめたり。今は経験で多少器用に、マシになったはずなのに 「自分はどうしたい?どう思う?」中身がわからなくて悩みます。

どの世代のどんな人も子どもたちの様に 自分自身を表現することは 難しく、勇気がいることだと思います。

ただ、娘が本書のように自分を偽って学生生活を送らなければならないなら 頭のどこかに本当の自分を消し去らないでおいてほしいと思いました。いつか、自分を表現できる時が来るまであきらめないでほしいです。苦しいこともあると思いますが そういうものを心に抱えながら生きていくことで、工夫をしたり、周りの人の気持ちに共感したり、想像したりできるようになるのではないかと個人的に思っているからです。

この学習会をきっかけに「個性」について、じっくり考えましたが、個性=性格なのか、個性的 と言われるちょっと人とは違った特別な何かなのか、混乱しました。はっきりとした正解がないことを深く考えるのは、普段とは違う感覚でした。

十月・十二月の学習会のご案内

2016年10月30日に『「個性」を煽られる子どもたち』 学習会、
12月11日に『「ケータイ時代」を生きるきみへ』学習会を開催します。

 

この秋は、「思春期の友人関係」と「携帯・ネット」をテーマに、以下の通り、二回開催します。

10月のテキストの著者、土井隆義は、今子どもたちが、一見屈託ない友人関係に、実は多大に気を遣い合っている背景を論じています。
12月は、「尾木ママ」が、思春期の子どもの成長にとっての携帯やネットの意味や問題を論じたテキストです。
どちらも、今の子どもたちを考えるための入門書的なものです。

1. 日時:
2016年10月30日(日曜)14:00~16:30
2016年
12月11日(日曜)14:00~16:30
2.場所:鶏鳴学園
3.参加費:1,000円
4.テキスト:
10月 土井隆義著『「個性」を煽られる子どもたち』 (岩波ブックレット) 
12月 尾木直樹著『「ケータイ時代」を生きるきみへ』(岩波ジュニア新書)

みなさまのご参加をお待ちしています。
10月と12月、どちらか片方への参加でも結構です。

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

主にどの箇所を読んで話し合うのか、後日ご連絡いたします。

 

 *** テキストと、テーマについて ***

私の勤める国語専門塾、鶏鳴学園では、毎年保護者会を開催し、保護者の方と子どもたちの状況について話し合います。
今夏の保護者会で、10月のテーマ、「思春期の友人関係」に関して特に印象に残ったことがあります。

それは、あるお母様から、学校の教師が「中高一貫の6年間で一生の友だちをつくりなさい」と子どもたちに話すと聞いたことです。
私はそうした指導に大いに疑問を感じました。

もちろん、多感な思春期だから特別な関係が生まれるというケースはあるでしょう。

しかし、私はむしろ、中高生の友人関係は原理的にとても難しいと思います。
彼らが、自分が何者なのかよくわからないという混沌の真っ只中にあるからです。
自分のことがよくわからなくて悩んでいる最中に、他者と確かな関係が築けるでしょうか。

そんな彼らに「一生の友だち」をつくれなどとプレッシャーをかけてはならないと思います。
そもそも友人関係は目的にはなり得ませんが、何よりも、「友だち」がいなくてはならないという彼ら自身の強迫的な思いを逆なでするようなことではないでしょうか。
また、子どもたちの多くは実際に、思春期の始まる小学校高学年頃から友人関係の問題を抱え、神経をすり減らしています。

10月のテキストは、正に彼らのそういった状況について考えるものです。

 

12月の「携帯とネット」も保護者会でよく話題になります。
どのご家庭でも、どのように使わせるのか使わせないのか、大変悩ましい問題です。
どう考えればよいのでしょうか。

また、この問題の根本的な難しさは、その底流で、10月のテーマ、「思春期の友人関係」の問題と深くつながっている点にあるのではないでしょうか。

 

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局

参加のお申込みは、下記、フォームメールにて、お願いいたします。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

『主婦論争を読む』学習会報告

上野千鶴子編『主婦論争を読むⅠ』『 〃 Ⅱ』(勁草書房1982年) 学習会
 (2016年5月22日(日曜)・ 7月17日(日曜))

 

私が専業主婦だったとき、漠然と「主婦」であるということに問題があるように感じていました。
じゃあいったい何が問題なのかというとよくわからない、漠然とした思いでした。

家事や育児はなくてはならない仕事であり、 それが大事な仕事だなどと言われると、当たり前すぎてかえって反発を感じるくらいでしたが、それでいて、自分に自信や誇りが持てませんでした。
多少外で働いてみても、大きくは何も変わらず、しかし経済的な問題が無関係だとも言い切れない…何をどう考えればよいのやら、霧のなかでした。

60年も前の「主婦論争」は、私のその当時の混乱そのままでした。
この60年間で社会は大変化を遂げたけれども、主婦の悩みや混乱にはまだ解決策が出されていないだけではなく、それがどういう悩みなのか、その正体すら明らかになっていないのではないでしょうか。
また、子育てはますます難しくなってきているように思います。

以下、学習会を終えての感想です。

最後に、参加者の感想も一部をご紹介します。

 

目次
(1)  主婦の生き方ってどうなのか?
(2)  主婦論争と、残された問題
(3)  自分の基準をつくるかどうかという問題

 

(1)  主婦の生き方ってどうなのか?

今回読んだ主婦論争は1955年から始まる。
私の母が結婚して主婦になる3年ほど前だ。

まだ家電もなくて家事に手間のかかった時代なのに、そのときすでに主婦という生き方について、これほどの論争があったというのは驚きだ。
60年代末期に主婦がマジョリティになるずっと前である。

 

当時、安い既製服がある訳でもなかったから、母は私と妹の服を縫い、初めて既成服を買ってもらったのは小学5年の時だった。
髪もずっと母に切ってもらっていて、散髪屋に初めて行ったのも、その頃だ。

また、父の仕事関係での主婦の役割も多かった。
たとえば、年始の挨拶といった特別な時に限らず、父が職場の同僚と飲みながら話すのも、自宅でだった。
社宅での主婦どうしの付き合いも、絶対に問題を起こしてはいけないと父にくぎを刺された上での、母の「仕事」だった。

つまり、当時主婦はたくさんの家事をこなし、家計をやりくりし、また「内助の功」にも励んだ。
主婦の仕事はなくてはならないものであり、母は生き生きと働いていた。

ところが、まだそれほど主婦が忙しかった時代に、主婦という生き方についての論争がこれほど盛り上がったのだ。
なぜだろうか。

まず、「主婦」という話題以前のこととして、この時代、戦中戦後の混乱を経験してきた人々が、まだ貧しい生活をなんとか成り立たせていこうという熱気があったのではないか。
反戦や反核、生活改善のための社会運動をしていた主婦が少なくなかったことも、この本で知った。

その背景の上で、はやり、その主婦論争の盛り上がりは、何よりも主婦自身が自分の生き方について、何かもやもやするものを抱えていたからだろう。
母も、私たち子どもが育ちあがるにつれて、自分の人生に焦りを感じていた。
戦後、職場と家庭の分断が進んでいく中で、男たちは当時の最大の問題であった「貧しさ」に、仕事を通して日々直接取り組んでいたのに対して、主婦たちには取り残された感もあったのではないか。
戦争中に、大家族の下、男も女も子どももなく総出で働いていたところから解放されたが、しかし、取り残された。

私自身も、子どもの服を縫う必要も、母ほどの内助の功も必要ない中で、やはり戸惑った。
今思えば不勉強なことだが、主婦ってどこへ行っても「お客様」だという焦燥感を抱えていた。

 

そもそも、一般庶民が社会的生産に直接関わらずに生きて、家事や育児に専念するという主婦の存在は、人類史上初である。
生産性が格段に上がったからだ。
先進国では、女も子どもも家族総出で働かなければ食べていけないほど生産性が低い時代を終えた。
また、高度経済成長時代、まだ家電も安いお惣菜もない時代にさらに生産性を上げるために、企業戦士を支えるための専業主婦という形が効率が高かったのだ。

その「主婦」の登場以来、私たちは戸惑っている。
その後日本社会は圧倒的に豊かになり、また女性の社会進出が進んで専業主婦は減り続けても、基本的な家庭の枠組みや、男女分業の意識に大きな変化はない。
また、娘として、主婦である母親との関係のあり方を模索する人も少なくない。

主婦の生き方にどんな問題があり、どんな解決策があるだろうか。

 

(2)  主婦論争と、残された問題

55年からの第一次主婦論争は、まず女性も職業を持ち、もっと張りを持って生きるべきだという問題提起から始まる。
女性の従属的地位からの解放のためにも、まず経済的自立が必要だと主張する、職場進出論派である。

それに対して、主婦の仕事の重要性を主張し、また他の職業と並べてお金の問題としては考えられないというような「神聖さ」を主張する派が対抗する。

当時の状況は、主婦も職業を持たざるを得ない階層があると同時に、職場進出などできないという状況の主婦が大半だった。
また、今現在もこの問題が解決された訳ではない。

この二派とは別に、主婦は、社会的な問題意識を高く持った市民として生きているという主張もあった。
そういう勢いもある時代だったのだ。

 

60年代の第二次主婦論争では、家事労働をきちんと経済的に評価すべきだという主張が登場し、社会保障として「主婦年金」を制度化すべきだという問題提起もなされる。

この「主婦年金」は、四半世紀後の86年になって、国民年金第三号被保険者制度として実現された。

共働き世帯は70年代から増え始め、90年代に専業主婦世帯数と拮抗し、2000年代に逆転した後、現在も増加中である。
「主婦年金」の是非が、今大きな問題だ。

しかし、家事労働がまだ大幅には産業化されず、また主婦がマジョリティであった60年代に、主婦の生活保障として「主婦年金」が提案されたこと自体は道理だったのだと学んだ。

 

70年代の第三次主婦論争では、「生産」よりも「生活」に価値を置く生き方が提唱される。

主婦こそ「生活」中心の解放された人間であるという主張には賛成できないが、男も「生活」中心に解放されるべきだという方向性はうなずける。

高度経済成長期の企業戦士の娘だった私の場合は、社会的生産がともかく第一で、それ以外の、例えば家庭のことなどは付け足しのような意識だった。
父だけがそういう意識だったのではなく、母も私も同じ意識にどっぷりつかっていたことを自覚していなかった。
それは大きな問題だったと思う。

しかし、では一体どう生きることが「生活」を重視する生き方なのか。
主婦論争の中には、まだその代案は無い。

 

なお、主婦論争を収録した今回の二冊のテキストの中で、子育ての問題を取り上げているのは梅棹忠夫だけだった。
それが奇異に思えた。
主婦の問題は、その労働の中心、子育てに集約して現れ、その問題をいかに解決していくかが問われるのではないか。

また、梅棹氏が半世紀余りも前に提起した母子一体化の問題は、その後深刻度を増し続け、現在も子育ての問題の核心だろう。

ただし、彼の解決案は、女性の「職場進出論」でしかなかった。
母子一体化の問題は、主婦による子育てに限った話ではない。
その後親子の一体化はさらに進み、子どもを自立させられないという問題は、主婦だけではなく、働く女性も含み、また父親をも含む問題となっている。

 

(3)  自分の基準をつくるかどうかという問題

「生活」を重視する生き方とは、自分自身の経験をもとに自分の考え方の基準をつくり、その基準を生きるという生き方ではないだろうか。

それは、主婦かどうかには関係がない。

むしろ、主婦という立場から基準をつくるべきだが、主婦に問題があるとすれば、そういう責任から一歩引いてしまうところにあるのではないか。
今回、参加者の一人の主婦が、自分は主婦だから夫や子どもを媒介としてしか社会と関わってこなかったと語った。
私自身もそう考えてきて、 そこには個人的な問題だけではなく、社会的な背景もある。
しかし、その一歩引いた捉え方自体を、私たちは克服していかなくてはならないのではないか。
それが今の私の答えだ。

 

夫が社会的生産を行う一方で、主婦として家庭を担っていた母の場合も、私の場合も、また、妻も職業を持つ場合も、単に社会的生産を第一義としてしまい、自分の立場からのものの見方をつくらないなら、家庭での問題を解決できない。
また、解決しようという過程は、自分の基準をつくっていく過程でなければならないのだとも言える。

そのことは、何よりも子育てにおいて問われるのだと思う。

例えば、子どもが学校や部活の基準に合わせなければならないと考えてくたびれ切っているのに、親が学校と全くの一枚岩で、子どもを追い詰めることがある。
また、子どもが本当に困っていることは、親の勉強についての心配などとはたいてい別のところにあり、またより厳しい困り方をしているように思う。
しかし、子ども自身も、親と一体化しているために、自分が本当に困っていることを本当に困っていることとして捉えることさえ難しい。

また、中学受験に失敗したと感じている子どもが、陰に陽に「リベンジ」を求められて、追い詰められることもある。
「偏差値」という基準に染め抜かれた子ども自身が、親の認識以上に傷付いているのに、その気持ちがきちんと受け止められることは少ないように思う。
受験の結果はよくなかったけれども、それは問題ないと言う親も多い。しかし、それでいて、親に「偏差値」以上の基準や価値観がなく、結局は受験の結果が絶対的なことだから、子どもの心は行き場がない。

親の価値観が多少とも更新されたときにはじめて、子どもは委縮から解放されて、自分の問題に取り組んで本来の力を発揮することもできるのではないか。

 

主婦も含めた親のやるべきことは、子どもの成長過程の中で、現実の具体的な問題に取り組むことを通して自分の価値観を更新し続けることではないか。

そうせざるを得ないような状況が、まさに子どもが苦しんでいることの中に現れている。
子どもが今どういう問題を抱えているのか、よく見なければならない。

でも、私の経験では、それは自分自身の問題を見ることを通してしかできない。
具体的な問題に取り組む中で、自身の問題にぶつかってはじめて、他者の抱えている問題にも少しずつ目が開かれていくように思う。

 

また、子育ては本来、子どもを媒介に社会と関わるのではなく、親が直接社会に関わる覚悟を持つべきことなのではないか。

もちろん、子育ての目的は子どもの自立であるから、そこに矛盾のある難しい課題だ。

しかし、まず、子育ての責任は親にある。

また、社会や学校と対等な立場にあるのは、子どもではなく、大人である親である。
例えば、子どもの学校と対等に話し合えるのは親だけである。
特に中学くらいまでは実質的には親が選択した学校であることからも、その学校にどういう問題があり、それをどう解決するのかといったことに関わる覚悟が必要だったのではないかと振り返る。
保護者として、ただ授業料を払うだけで、学校の言いなりなら、親の責任を果たしているとは言えないのではないか。

 

 

◆  参加者の感想より

<五月学習会>
主婦、Aさん

主婦業ほど様々に議論がなされる仕事もそう多くはないであろう。 石垣綾子は、主婦という立場を、「第二の職業」として厳しい目を向け、主婦の心がいかにふやけているか、「朝から晩まで、同じ仕事を永遠に繰り返している主婦は、精神的な成長を喰いとめられる。」ことによって、知的な鋭さを次第に失っていくなどと指摘し、主婦の仕事内容だけではなく、主婦の存在そのものを安易、怠慢だと批判している。この論文が書かれたのは、1955年のことだが、現在でも、生活が向上して、さらに時間的に余裕ができた主婦たちへの批判的な意見が消えることは無い。

私は専業主婦であるので、この文章を読んだ時には、そんなに批判をしなくてもと思いながらも、確実に自身の中に空虚感を抱えていることも否めないと思った。家事や育児は、社会に対しては大切な生産的仕事であるはずなのに、なぜ、社会に働きに出てものを生産することだけが自立であり、ものを消費する立場の主婦は、「男に寄りかかる。」ことになるのであろうか。

平塚らいてうは、「ものを作るのが人生の目的ではなく、消費されない限り生産の意義がない。」としている。しかし、大切なことは、単に、経済的に生産する、消費するということではないと思う。社会で働いて生産し(第一職業)、経済的に自立している主婦も、精神的に自立していなければ、「人間として生きて行く。」ことにはならない。

この家庭論学習会で学びたいと思っていることは、社会の一員である私の、主婦としてのこれからの人生の目的意識をはっきりとさせることである。そうすれば、建設的ではない消費に感じていた後ろめたさは少なくなるのではないか。また、主婦業が安易で怠慢だと言われても、自信を持って過ごすことができるのではないか。

 

<七月学習会>
主婦、Aさん

前回に引き続いて、今回も主婦という特殊な立場を掘り下げて考えた。その中でも、職業を持たない主婦は、武田京子によると、「自由で人間的な生き方をしている」らしい。それは、「働かないですむこと、なまけものであることを主体的に選んで生きている」から、というのが理由である。武田はさらに、「社会的生産労働など、まったくしないですむのがより理想に近いかもしれない。それは義務でしかないのであるから。」としている。さすがに、それは言い過ぎだと思うが、専業主婦が、「自由で人間的な生き方をしている」のであれば、羨まれるような立場であるはずなのだが、なぜ、専業主婦自身が自分たちの仕事や立場に疑問やコンプレックスを抱き、論争など起こるのであろうか。

専業主婦である私の場合、主婦の仕事のほとんどが子育て中心に回っていた。主婦の仕事=子育てだと思い込んでいた、と言っても過言ではない。武田の言う、「なまけものである」か、ないかは別問題として、「自由な生き方をしている」などとは、今までこれっぽっちも思ったことはない。むしろ、子供たちのことを優先して、自分のことは後回しにしてきたからである。そして、子供たちが巣立った今、私の仕事は一応終わったのであるが、働く女性であれば、定年時に支払われる退職金にあたるものが専業主婦にはない。退職金は、自分が社会で積み上げてきたことの証である。私が、今まで積み上げてきたものは何か。何もないのではないか。そこに、矛盾や疑問、やるせなさが溢れ出てくるのであろう。

これは、決して経済的な問題だけではない。子供と一体化し、依存し過ぎた結果、自分がないと感じている私の生き方の問題である。さらに、専業主婦だけではなく、働く主婦たちも子供に依存した生活を送っていれば、働く女性としての退職金は手にしても、主婦として何が残ったのか、と私と同じ疑問を持つのであろう。

主婦にとって退職金に当たるものは何か。主婦の仕事の証と言えるものは何か。それは、これから社会で活躍するであろう、成長した子供たちなのであろうか。

さらに、この先、主婦として、女性としてどう生きるのかという問題にも正解はない。自分自身の人生の過ごし方を探したい。

 

社会人ゼミ生、Bさん

主婦自身が自分を抑圧しているという武田論文の指摘が心に響いた。抑圧から抜け出そうと外に出ても、それで抑圧がなくなる訳ではない。

また、多くの論文が掲載された雑誌、『婦人公論』は、今は女性週刊誌の高級版のようになっているが、当時、主婦も投稿して本格的な論戦があり、また、マルクスを実際に読み、それをもとに意見を述べている人が多いことに驚き、おもしろかった。

五月・七月の学習会のご案内

上野千鶴子編『主婦論争を読む』学習会のご案内  

5月22日(日曜)と、7月17日(日曜)に開催します

 

次回からのテキストは、1950~70年代の「主婦論争」を収録したものです。
当時、様々な分野の学者や、また主婦自身も加わって、主婦の生き方ってどうなの?という大論争がありました。
『Ⅰ』と『Ⅱ』の二冊ありますので、5月と7月に一冊ずつ読みます。

 

50年代は、戦後の高度経済成長とサラリーマン化によって専業主婦が急増した時代です。
女性も農業、商業など家業の労働力であった時代からの大転換でした。
大家族から核家族へと移行し、また、男女が仕事と家庭を完全分業するようになりました。

60年を経た今、日本社会は圧倒的に豊かになり、また女性の社会進出も進みましたが、基本的な家庭の枠組みや、男女分業の意識に大きな変化はありません。

現在の私たちの問題をしっかりと考えるには、私たちの親の世代の、日本社会や家庭のあり方の大転換、変質のところから考えてみる必要があると思います。

 

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

主にどの箇所を読んで話し合うのか、後日ご連絡します。
5月と7月、どちらか片方への参加でも結構です。

 

1. 日時:5月22日(日曜)14:00~16:30  
                  7月17日(日曜)14:00~16:30
2.場所:鶏鳴学園
3.参加費:1,000円
4.テキスト:
5月 上野千鶴子編『主婦論争を読む Ⅰ』 (勁草書房)
7月      〃   『     〃       Ⅱ』 (勁草書房)

※テキストは、 『Ⅰ』が2,900円、『Ⅱ』が3,800円(税抜)と少々高価ですので、中古でも十分です。または、図書館で借りてご用意ください。

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局 田中由美子

参加のお申込みは、下記、フォームメールにて、お願いします。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

『女と自由と愛』学習会報告

松田道雄著『女と自由と愛』(岩波新書)学習会
(第3回 2016年3月13日(日曜))

3月の学習会には、私の勤める国語塾、鶏鳴学園の生徒の保護者、社会人ゼミ生、卒塾した大学生が参加されました。

テキストの前半を読みながら、結婚や恋人、家庭について、若い人と年配者、社会で働く人と主婦というような、異なる立場の思いが語られました。
例えば、若い女性に、仕事の厳しさから逃れたい思いから主婦願望があるのに対して、子どもが巣立つ喪失感に戸惑う主婦の思いです。
また、自分が不登校になるまでは、父親は、稼いで来ればそれで家庭に対する責任を果たしていると考えていたのではないかという、家庭のあり方への振り返りもありました。

さて、テキストですが、松田氏は、女性にとって厳しい現実社会との闘い方を指南しながらも、女性一般の意識の問題を指摘しています。
まず、結婚は自立した市民間の対等な契約であるべきだが、女性にそういう人権意識が弱いのではないかという問題提起。
また、社会で出世することを重視する「上昇志向」のために、家庭での仕事に誇りを持てないのではないかという問題提起です。

以下、詳しい感想です。
参加者の感想も、一部をご紹介します。

 

女性の意識と、家庭の仕事
目次
(1)  問題は、仕事と結婚の両立なのか
(2)  女性の人権意識、価値観の問題
(3)  家庭の仕事の孤独
(4)  変革意思
(1)  問題は、仕事と結婚の両立なのか

女性の生き方を論じる本書を、松田氏は「はたらく女と専業主婦」という章から始める。

今回の学習会でも、主婦の不全感やコンプレックスの他、若い女性の、上司の独身女性に対する、自分は「そうはなりたくない」と表現されるところの結婚願望や、彼女が不当に優遇されているのではないかというやっかみなどが正直に吐露された。
女性が、同じ女性の生き方に自分の人生を重ねてみて、その後どんな働き方をするのか、また未婚か既婚かが、複雑な感情を伴って強く意識されている。

女性にそれだけの対立が存在するのには、背景として、現実社会にそれ相応の問題があるのだと思う。
つまり、特に女性には、家庭の外で働きながら結婚生活を送ることに困難がある。
それゆえ、仕事を選ぶ者と結婚を選ぶ者、双方にコンプレックスも生じやすく、対立が起こりやすい。
少なくとも近年まで、その両方を選ぶことに何の問題の無かった男性には、こうした対立は起こらない。
結婚して働くのも、結婚せずに働くのも、今も女性特有の難しさがあるようだ。

その現実の十分な認識なしには、女性の生き方は語れないだろう。

しかし一方で、松田氏は、仕事か結婚かというこの二者の対立が女性の問題の根本ではないと考えている。

 

(2)  女性の人権意識、価値観の問題

本書は小説仕立てになっている。
教会傘下の幼稚園の園長として、独身のまま先進的な教育に取り組んできた女性と、保守的な教会側、という対立が背景である。
その園長の側に立つ若い女性が、協会側に立つ主婦のことを「なんて料簡が狭いのか」と息巻くのを、筆者がなだめるところから話が始まる。
松田がその女性と手紙のやり取りを重ね、女性の問題の全体を説いていく。

結婚より仕事に気持ちの向かうこの若い女性と、片や、結婚して主婦になったものの、家庭の仕事をすることに誇りを持てない多くの女性との間に、松田は、対立よりも、むしろ共通する問題を重く見ている。

 

松田は、結婚は自立した市民間の平等な契約であるべきだと述べる。
ところが、女性が、人権意識や職業人意識の低さから、対等な男女としての契約なしに結婚し、無条件に家庭に入ることが多いことを問題視する。
結婚前の職業を辞めることに対しても、また「主婦」という家庭経営の職業に就くこと、結婚に対しても、責任感が薄く、また、自分の権利も主張しないという問題だ。

学習会の参加者の一人は、自分が家庭を守る役割を引き受けるという契約の意識を持って結婚したと語った。
彼女の意識は、松田が問題にしているような単なる恋愛礼讃的なふわふわしたものではなかった。
ただし、彼女に夫と対等であるという意識はなかったという。

私には、契約の意識も、対等との意識もなく、また長くそれに気付かなかった。

女性が、「女も男のするように自分の生き方は自分で選んでいいのだという現代の人権について無知だ」と松田は述べる。

社会に対して閉じた面を持つ家庭の中で、必然的に依存し合って生きる家族の一人でありながら、個人としての人権や自立の意識を強く持つことの難しさがあるだろう。

しかし、
結婚する場合も、しない場合も、自分の人権の自覚を持って生き方を選んでいくべきだという主張だろう。

もう一つの問題として、松田は、社会で出世することを重視する「上昇志向」の問題を挙げる。
主婦の不満や卑屈さの原因の一つは、その立場が「上昇志向」の欲求を満たさないことだろうと述べる。
「大多数の市民は昇進もなく、社会的評価もしてもらえないところで生きています」という松田の指摘は、私が自覚していなかった自らの「上昇志向」に不意に光を当てた。

少し話が逸れるが、そもそも主婦という生き方は、妻が働かなくても生活できるような階層だから成り立つという面がある。(最近は、貧困層に専業主婦が増えているが。)
それは、夫が社会的に「評価」されたことの結果であり、しかし、妻自身への評価ではないという歪みも、私の中にあったかもしれない。

ともあれ、「上昇志向」的価値観の貧弱さを、松田は結婚しない若い女性にも、また結婚した女性にも見ていた。

私は家事が好きだったが、家庭内のことは私事に過ぎないというような意識があった。
それは、高度経済成長期に仕事をした父の意識であっただけではなく、母も含めた家族の意識だったことに最近になって気付いた。
外で夫がバリバリ働くことや、子どもがせっせと勉強することが表舞台であるのに対して、日常や家庭は楽屋裏であるだけではなく、半ば仮の世界だった。
家族の日々の生活の衣食住を支え、彩り続けてきたことに喜びと誇りを感じながら、同時に「仮の世界」に生きる空虚さを抱えていた。

 

(3)  家庭の仕事の孤独

主婦としての不安を振り返ってみると、松田の指摘する、が挙げる個人的な意識の問題と併せて、家庭内の仕事や問題を、大きな社会的な視点で捉えて相対化することが難しい状況が問題だったと思う。
目の前の問題が一体どれほどの問題なのか、あるいは問題ではないのか、また問題であるとすれば、どう解決すればよいのか。
それらの問いが言葉にもならないままだった。

自分が社会的に評価されるかどうか以前に、他の職業がそうであるように、同じ仕事に取り組む仲間と共に、その仕事について学び、その能力を高めていくことができればよかったのではないか。
家庭の問題は、それだけ重要で、難しい仕事だ。
人の子の親になるというような新しい仕事に対して、また子どもの成長と共に学び続けながら、一つ一つ自覚的に問題解決していってこそ、プロ意識や誇り、また自分自身の価値観を育てていくことができるのではないか。

 

松田は主婦の生き方の例として、料理教室やボランティアといった活動を挙げているが、的を外していると思う。

誰か他の人のために活動するよりも、まずは自分自身の仕事の能力を高めるような活動が必要だ。
主婦自身が、料理のテクニックなどで悩んではいるのではなく、子どもを社会に送り出すという、社会的な仕事としての子育てについて悩んでいるのである。
子育てだけではなく、家族の関係や病気、老後等々の家庭内の問題は、それを家庭内に留めずに、社会的に学び、解決しなければ、解決の難しい仕事である。

特別な社会的活動が先にあるのではなく、まずは自分の家庭や社会的関わりを直接に変革していく過程の中に、女性が社会に出ていくことの必然性があるのではないか。

 

(4)  変革意思

松田には、自然でも社会でも、それが人間が生きるのに不便なら、「人間の都合のいいように人為をもって変えていくのが人間」だという信念がある。
「人類の半分の女に不都合にできていたら、つくりかえればいい」、「それができるのが民主主義」だという変革精神だ。

だから、女性にとって、仕事と結婚の両立が難しいことについては、松田はその現実をしつこいくらい強調しながら、しかし、闘って変革すべきだということが前提である。
厳しい現状を甘く見ずに、社会が男本位なら闘い、また、家庭の中では男女平等を実現できると説く。
松田が、結婚を勧めるというようなおせっかいをするのは、生活の中で地道に闘うための戦略であり、闘うことが前提になっているのだ。
厳しい状況や、他者の意向が前提になるのではなく、変革が前提である。

問題は、そういう変革の意識が私たちにあるのかということだ。
松田はそれを問題にしている。

 

また、松田は子育てについて、「自分の生き方を大事にする母親」が、「自由の喜びを知った自立した人間を育てられる」のだと、母親の生き方を問う。

一方で、松田は、母親のやさしさが子どものやさしさ、良心を育てるとも述べる。
「あれこれの戒律を教えるのが家庭の道徳教育ではありません。人からやさしくされることがどんなにいいことかを、あかちゃんの時代から教わるのが家庭です」。
社会主義の「家庭不用論」の失敗を目の当たりにし、また、小児科医として長年、子育てや家庭の意味を考えてきた松田らしい言葉だ。

しかし、私たちが考えるべきは、後者のような、母親の「やさしさ」といった自然的傾向の礼讃ではなく、前者の、母親がその人為をもって、いかに一個人としての「生き方」をつくれるのかという問題である。

子どもが自分自身を尊重するような強いやさしさを育むのは、前者によるだろう。

「自由の喜びを知った自立した人間を育てる」とは、現状に適合するような人間に育てようとするのではなく、身近なところから変革して生きていけるような人間を育てることではないか。
母親自身がそのように生きているのかが問われる。

 

管理社会に呑み込まれるのではなく、個人を守り、確立するような家庭経営を松田は主張する。

単に現在の社会に適合し、また適合する人間を育てようとして、会社や学校に振り回されるような家庭ではなく、逆に個人の砦になるような家庭。
例えば、子どもが学校で問題を起こしたら、親が学校と同じ側に立って子どもを責めたり、また単に子どもに同調するのでもなく、学校と十分に話し合って、学校と親の変革に取り組むような姿勢ではないか。

私たちの多くが経験した、戦後の男女の完全分業も、その役割を果たし終えて行き詰った。
そこから出てくる答えは、対等な男女がチームとして家庭を経営し、また、「上昇志向」を変革意思へ切り替えていくことではないだろうか。

 

◆参加者の感想より

生徒の保護者、Aさん

少し前であれば、「主婦の生きがいは何か。」という問いに、「家族の幸せを願い、支え、応援し続けること。」と、何の疑問も抱かずに答えていたと思います。それが良い母、良い妻であり、私自身の幸せでもあると信じていたからです。勿論、今でも著者の言うように、「家庭が精神を安定させる」場所になることは大切だと思っていますが、問題は、私自身の生きがいがそこにしかなかった点にあった、と学習会を通して認識することが出来ました。

主婦の生きがいについて、「私が問題にしているのは、ふつうの女の人が主婦になることと、自分のえらぶ人生を生きることと両立させられるかということです」と著者は書いています。子育てや家事などの仕事をしている主婦としての自分、プラス、一人の個としての自分があるべきだったにも関わらず、いつの間にか、主婦がイコール自分の全てであり、主婦の仕事の中にしか生きがいを見つけられなくなっていました。

子供たちが成長し、手助けを全く必要としなくなった今、この先の人生をどう生きるのか、これからも学習会に参加して答えを探したいと思っています。もしもこのまま、家族に依存した状態で過ごすのであれば、自分がないままに生きることになるからです。以前、主婦として同じような悩みを抱えていた参加者が、例え仕事をして収入を得て経済的に自立をしたとしても、精神的に自立をしない限り何も変わらなかったという意見が胸に響きました。

 

社会人ゼミ生、Bさん

専業主婦の時期に自分がどんどん卑屈になり、再就職したこと、再就職して卑屈な気持ちが軽減した、と知人の体験として聞いたことがあった。自分自身も収入を得たことで気持ちが安定したことを思った。だから、「稼ぐ」ことは自分が胸を張って生きるための確かな要素だと思っていた。しかし、学習会の中で田中さんが、過去にパートに出て自分に現金収入を得たが気持ちの辛さは何も変わらなかった、と話すのを聞いて、自分を支えるために、収入は大きな要素の一つだが、それだけでは自分の空虚感を解決できないのだと思った。そして、現在鶏鳴学園で中学生クラスを持ち、家庭論学習会を主催する田中さんが、今は過去の気持ちの辛さとは全く違う、もっと良い授業をしたい、授業も学習会も辛いけれど、と力強く話すのを聞いて、勇気をもらった。そして自分の中の穴を埋めるのは自分でしなければならないのだ、と改めて思った。

 

生徒の保護者、Cさん

この本が出版された1979年以来、日本は、男女雇用均等法、バブル経済とその崩壊後の不景気、就職超氷河期、格差問題、SNSの普及、アベノミクなどいろいろな時代を経てきました。

結婚後も働き続ける女性が増えたり、女性を取り巻く環境は大きく変わっているようにも見えますが、 一人一人が抱える問題は本質的にはあまり変わっていないと感じました。それが、一人一人の内面の問題なだけに、公の場では語られる機会がありません。

主婦として家の中で働くのか、外で働くのか、いずれにしても誇りを持って生活できるように選び取っていけないと思いました。

 

社会人ゼミ生、Dさん

意見交換の時間こそが、この学習会では重要だと感じた。意見交換でいかに自分の経験をこの場で話すか、言葉にしていくか。学習会を使ってそれぞれの自己理解を深めることこそが重要ではないか。具体的に言えば、自分が果たした子育てはなんだったのか、自分にとって家庭とは何なのか、本来どうあるべきか、に対する答えを自分で出すことだ。

また、50代の参加者が「これから20年生きなくてはいけない」と言っていた言葉が重く心に響いた。課題は盛りだくさんなのだ。大変だ。私自身も生きるうえで必ず答えを出さなくてはならない問題が立ちはだかっていることを今回自覚した。

 

社会人ゼミ生、Eさん

私のように社会に出たばかりの女子の中には、仕事を持つことで背負う責任やプレッシャーを感じ、そこから解放されたくて専業主婦に憧れる人も少なくない。私も、転職先に合格するまでは、現状が辛すぎて専業主婦もいいかもしれないな、と安直に考えていた。しかし、専業主婦も配偶者のお金でランチを食べること、自分が常にお客様であることへの違和感など、経済的、精神的にコンプレックスを抱えているということを知り、楽な道などないのだと心を戒めた。

専業主婦になるにせよ、仕事を持つにせよ、いずれにせよ、「楽になりたい」とただ流されているだけでは、家事と仕事の両立がむずかしい現代の社会においては、自分の人生への不満が大きくなってしまうのだろう。

松田の本には、結婚時の財産契約などの提案があったが、これらの提案から読み取れるように、自覚的に家庭を運営する、自分の道を選ぶ、自立する、ということは、家庭を持つ女性の必須課題であると感じた。

また、本の中で随所に見られる、家庭を持つことによる「安定」という言葉に引っかかりを感じた。私の年代の日常会話においても、「早く安定したい」=「早く結婚したい」であるということは、結婚を安定の手段と考えることが世間認識では一般的なのではないか。結婚すれば安定するという神話があるのではないか。しかし、裁判所で働く私の実感としては、家庭を運営する覚悟を持たない人が家庭を持つことによって、かえって家庭の深刻な紛争といった、安定と真逆なことが生じている。

結婚とは安定ではなく、互いが協力して、個々の人生の質を高めながら、一緒に生きていく(家庭を自覚的に運営していく)ことではないか。今回の学習会を通じて、本や意見交換が鏡となり、自分を深められたこと、それがなによりの収穫だ。

 

卒塾生、大学生、Fさん

今回の家庭論学習会では、専業主婦や働く主婦の区別を問わず、主婦一般が社会で自立するにはというテーマだった。この自立というのは、実は主婦、女だけでなく男の方にも関わっている問題、即ち人全体に関わっている問題だと思う。

私は大学生の男で、2月、3月は春期休業なので専ら家にいた。そこで私は家にいるとよく「自分はこれからどうやって生きていくのだろうか」という不安を持ち、それしか考えられなくなる。不安を紛らわすために美術館や本屋に行っても、帰ってくればまた不安になる。

多くの主婦もまた、日常の中で自らの人生や社会的な意義について悩んでいる。そしてその悩みは、非日常によっては解決されない。

こうして見ると、主婦が悩む「どう生きるか」という問題の根底は、女性だけの問題ではなく、「人の自立とは何か」という普遍的な問題だ思う。

それが主婦独特のように思えるのは、第一に近代以来の男女分業の名残があって「主として男が稼ぐ」という考えが一定数あること、第二に女性が現実的に男女不平等の風習に苦しんでいることの二点からだ。

因みに、第一の分業精神は「4低」という言葉の流行に象徴されるように、少しずつ変わっていると思う。勿論、分業の崩壊に対し「男は女から求められすぎている」という反対の声が多く上がっている現実もある。このような声を挙げるのはもっとものように感じられるが、これは建前としての男女平等に男も惑わされ、本音としての身体的な宿命等に起因する第二の問題、即ち風習としての男尊女卑という現実を見据えていない意見ではないか。

まとめると、主婦の生きがいという問題は人の自立とは何かという人間の普遍的な問題と、女性が家庭の内外で直面する男尊女卑という問題が重なった問題だ。